京都回想記【32.京都での一年半】
U君にうながされて、手作りの詩集を出すことになった。ロウ紙の原紙をきってガリ版(謄写版)で一枚一枚刷る。表紙は色画用紙にゴム版画を押したもので、ホッチキスで止めて完成。詩は幼稚なものだったが、いざ出来上がってしまうと満足できた。知人などを集めて二号ほど作って解散、やがてU君は個人の詩集を作り始めた。私もまねごとで一号だけ作ったものが、今も残っている。
さらには、この詩集を繁華街に売りに行こうとなった。市バスで河原町四条あたりまで出かけて、3時には閉まる大手銀行の前の歩道で、ムシロを広げて詩集を並べて座る。当時は学生運動のあおりで、街頭でのフォーク演奏が流行りだった。隣にも、若者が座ってギターを演奏する。そちらには若い女の子たちがきゃあきゃあ集まるのだが、インケツな詩集などは見向きもされなかった。それでも、そういうことをしているのが満足だった。
鬱からの脱出期には、仏教思想にはまって何とか気持ちの安定を図った。すこし出あるけるようになると、スケッチブックなどを抱えて、奈良の西ノ京などを徘徊した。人気少なく春先の長閑な光景には癒された。さらには、東寺の境内で金堂のスケッチなどもした。もとより絵心はまったくなかったが、この時期だけスケッチブックを持ち歩いた経験は、懐かしい。
そんなこともあって、夏ごろには誘われて、街中の某教会の牧師が無料で教えてくれるという絵画教室にも参加した。絵はまったく上達することはなかったが、高校時代の同級生なども来ていて、楽しく過ごした。この一年半近くの時期は、学業はほうったらかしでぶらぶら好きなことをして過ごした分、自分の視野がかなり広まって、後年に大きな影響をもたらしたと思える。
この時期の京都では、若者文化が沸騰していた。学生運動崩れの若者や、フォーク、ロック、ジャズなどに集う若者の文化が、関東に対抗するぐらい京都で花開いた。ライブハウスのハシリともいえる拾得、縄文、磔磔や、フォーク系ではほんやら堂など、今でも噂さに上がる店が開店した。
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