京都回想記【31.京都で人生観が反転】
全学集会の後、機動隊が導入され8月8日には全学が封鎖解除された。被害の少なかった経済、経営学部では、さっそく8月18日から授業が再開された。占拠が長かった教養部では修復に時間がかかり、9月16日になって全面的に授業再開された。1968年度後期は試験なしで、数枚のレポート提出で単位が取れた。鬱でほとんど出席してなかった私は、語学の単位をあきらめていたが、封鎖中に占拠学生が学籍簿を寒さしのぎに燃やしてしまったという。
神大は教養課程が1年半で、そこ単位不足だと専門課程に上がれず留年となるのだが、そんなわけで何となく進級してしまった。1969年は特例で12月にずれ込んで後期が始まり、その時期から改めて神戸に下宿することになった。今度は東灘区の国鉄(JR)摂津本山の駅前に下宿屋を見つけた。山手に上れば阪急岡本駅があり、そこから二駅で阪急六甲である。大学まで市バスがあるが、歩いても15分程度だ。ただし、毎日が登山となる。
彼は二浪中であり、私の方は二度の鬱状態をへてきたため、ともに多少は物事を考えるようになっていた。そして文学や哲学をかじるようになり、詩のまねごとなどにも手を付けだした。私は仏教、とりわけ禅仏教にはまって、鬱から抜け出す道を探っていた。U君は、厳格なサラリーマン家庭で育って、小学生のときも優等生的な生徒としてふるまっていた。しかし二度の受験浪人生活ををへて、それまで押し殺していた自我が目覚めてきていた。
両人が共通して自分の自我を意識しだしたタイミングで文学に出くわした。それから、むさぶるように読書しだした。私は漱石など教養的な方面から入ったが、U君は自分の感性だけで、いろんな作家を見つけてきた。彼から紹介されて決定的だったのが吉行淳之介だった。吉行は世間的には性風俗ばかり書いている作家とみなされていたが、紹介されて手に取ってみるとまったく違っていて、その繊細な感性に魅了されることになった。
さらには、哲学思想系にはまったく関心を持っていそうになかったU君なのに、どこからかニーチェを見つけてきて私に紹介した。当然ニーチェの名前は知っていたが、それまでの辞書的な知識とはまったく違うニーチェが現れた。それまで社会調和的な思考に慣れてきた私にとって、自我を最前面に押し出すニーチェの反抗哲学にも感服した。
それまで、社会に順応するように努力してきた私は、彼らの思考と感性によって、これまでと180度転換した生き方を選択するようになった。U君と二人は、親を含めて世の中に全面的に反抗するような態度をとるようになった。世間と対立することで、これまで見えていなかった自分自身が、明瞭に姿を現してきたのであった。
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