京都回想記【35.いつのまにか4年生】
ほとんど下宿部屋で、夜昼逆転したような生活を送っていた。本を読んだり夜食をつまんだり、そうこうしているうちに夜が明けそうになり、始発電車がガタゴト動き出す音を聞きながら眠りに落ちる。週に一回だけのゼミの演習だけは楽しいので、寝る時間を少しずつずらせて、ゼミの日には昼間に起きて出席することにしていた。
いつの間にやら一年が過ぎて、4年生になってしまった。当時は高度成長期の余波で、まだまだ企業は大量に新卒大学生を採用していた時期で、ほとんど就職の心配は要らなかった。青田刈りといって、企業は出来るだけ早く優秀な学生を採用していたので、4年生の4月にはすでに就職活動が始まっていた。
私は就職にもあまり気乗りがせず、しばらく就職活動をしなかったが、周囲がほとんど内定を取ってたので、しかたなくゼミ教官の新保先生に、適当なところが残ってないかと尋ねに行った。横着なゼミ生にもかかわらず、先生は手元に来ている求人会社をニ三紹介してくれた。ほぼ名前を聞き知っている大手会社ばかりだったが、国内資本の某石油会社の面接を受けることになった。
東京本社で面接を受けて、すぐに内定をもらった。そのうち夏休みになると、ドカッと創業者の自伝などの著作を送ってきて、読んでおけという。噂には聞いていたが、英雄的な伝説をもつ創業者は、一方で有名な国粋主義者だった。つい先日まで米帝日帝打倒などと叫んでいた世界からは、正反対の世界に接して戸惑うばかりで、そのまま就職する気には成れなかった。
うちの大学の学生、とくに経済や経営学部の学生は、研究者や高級官僚を目指すわけではなく、はなから大手企業に就職するつもりのものがほとんどだ。そういう意味では、毛色の変わったユニークな学生はほとんどいなくて、一流半の面白みのない学生が多かった。前身の旧神戸高商の時代から、「番頭さん養成学校」などと呼ばれ、もっぱら実業志向だった。ちょうどこの時期は、銀行や商社が人気だった。関西系の大手商社なら、京大・阪大・神大とそれぞれ数十人の採用枠が定められているとされ、先着順でほぼ内定が取れた。
当時の成績の評定は優・良・可・不可ときわめて大雑把で、不可以外は単位が取得できた。真面目に講義に出てきっちりノートを取ってる同級生がいて、期末試験のある科目で、答案がうまく書けず、良になりそうなので提出しなかったという。彼は三井・三菱という関東系の最大手を目指していて、さすがにそのレベルだと、優をそろえないと難しいらしい。私は卒業必要最小単位さえ取れたらいいので、もったいないなあ、代わりに答案にワシの名前を書いて出してくれたらいいのに、というような笑い話をしたもんだ。
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