2024年12月26日木曜日

#京都回想記#【42.担当店が変わる】

京都回想記【42.担当店が変わる】


 仕事が順調に進み、他社のセールスとも店頭で会話することも多くなった。担当でうろうろしていても、とりたてすることも無いので雑談を交わすことが多い。K社の担当が課長代理というベテランに変わったが、その課長代理と両者のコーナー前での立ち話では、この売り場はおたくとうちで成り立ってるようなもんですな、と彼がいうぐらいで、店の担当主任の影が薄くなるほどメーカーサイドで仕切ることが多かった。

 1975(昭50)年の秋のキャンペーンの時期になると、2年後輩が入社してデパート課に配属されてきた。新規セールスマンをトップ百貨店を担当させて鍛えるという方針で、彼がD百貨店担当になり、私は中堅デパート2店の担当に変わった。京都駅前のM百貨店と、四条寺町のF百貨店で、M店は老舗でゆったりとしたスペースがあるが、駅の乗降客を動員できないで売上げ不振に悩んでいた。F店は店舗規模が小さくて五十貨店と自称し、ファッション衣料品に特化していた。

 売り上げが小さめの2店舗担当となったが、M店が主で、F店はあまり商談も少なめなので、美容部員任せができた。M店は老舗であっても集客力が弱いので、店側の担当従業員も出入り業者に対して腰が低く、フランクに対応してくれて居心地がよかった。M店は会社からも歩いて行ける距離だったので、会社が居心地の悪いときには息抜きに行けるぐらい気楽な場所だった。


 担当店が変わった翌年1976(昭51)年の春のキャンペーンは「恋のミルキーオレンジ」というタイトルで、CMソングはピンポンパン体操という幼児番組で使われた、りりィの「オレンジ村から春へ」だった。化粧品売り場にはイベントスペースがあって、そこで各メーカーが交代でデモンストレーションを行うことになっていた。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ
https://www.uta-net.com/movie/333205/4R83CE_0kfU/

 あるとき通勤の帰りのバスで、高校時代の同級生とであった。彼は京都の工業系国立大学を卒業したにもかかわらず、脱サラで花の仕入れ販売をやっているという。そこでバスの中で、花を売り出しの企画に使う相談がまとまって、資生堂のデモ期間中は、彼が持ち込んだ鉢植えの花でコーナーを一ぱいにした。それを化粧品の買い上げの景品としたので、結構な売り上げになった。

 秋のキャンペインは、シンガーソングライター小椋佳の「揺れるまなざし」がタイアップソングとなり、すぐにレコードもヒットした。この時も、M百貨店店頭でキャンペーンデモをやったのだが、売り場にはビデオが流せる装置があって、CMビデオなどを流していた。ところが、たまたまNHKで小椋佳の特別番組を放送したのを、美容部員の一人が録画してきて、そのビデオ装置で流したらしい。

'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳

 店側に、客側に向けて番組ビデオを流したことが著作権法に違反する、との匿名のチクリ手紙が届いた。美容部員はよかれと思って流したのだろうが、私の知らない時のことなので、仕方なしに上司のデパート部長と二人で、NHK京都支社に謝りに行った。先方は「〇〇担当主査」などといった名刺を出したが、一般企業の役職と違う名称を使っているので、どれぐらい偉いのかも分からず、とりあえず二人で頭を下げて帰った。

0 件のコメント:

コメントを投稿