2024年12月11日水曜日

#京都回想記#【30.そして大学封鎖が始まる】

京都回想記【30.そして大学封鎖が始まる】


 夏休みが終わっても鬱状態から回復せず、ひたすら実家でぐだぐだしているばかりだった。新学期が始まっても登校できず、10月半ばになってやっと学校に出かけられるようになって。久しぶりに体育の授業に出席すると講師から、これから全部出ても出席が足りずに単位は取れないよと言われた。じゃ遊んで帰りますということで、卓球をして帰った。

 そういう感じで適当に講義に出たり出なかったりしているうちに、関東から始まった大学紛争が神戸大学にも波及して、教養部の教室が封鎖された。紛争はまたたく間に全学に広がって、年が明けても一向に進捗しなかった。

 1969年2月には、六甲大講堂で全学集会が行われた。私も出かけたが、ひたすら怒号が行き交うばかりで、何一つ議論にもならなかった。そのころ東大では、2月に機動隊が導入され、激しい攻防のすえ封鎖が解除された。これを契機に、機動隊導入が当たり前となり、全国の大学でも次々に封鎖解除されていった。

 わが大学では根気強く話し合うという路線をとり、一向に打開の目途が立たず、早くも夏休みが近づいていた。当時の学長代行の提案で、7月12日、須磨区の高倉山造成地で全学集会を開くことが提示された。当日、国鉄(現JR)須磨駅前には、集会阻止のために続々と学生たち詰めかけていた。

 私も明確な立場の無いまま、京都から冷やかし半分に出かけた。さてどうするかと思案してるとき、さっ行きましょと両側から活動家の女子学生に腕を組まれ、そのままデモ隊の最前列で造成途中で赤土むき出しの高台まで駆け上がることになった。高台の造成地に着くと、入り口で機動隊が二列に向かい合って並び、一列になってその間を通れと言われた。

 そのまま奥の崖っぷちまで誘導され、ゲバ棒などを持ってる活動家は留められ、われわれ学生は、一列に並んで機動隊がサンドウィッチする間を通って解放された。通ってる間には、腹をどつかれたり眼鏡を払い落とされたり、痕跡が残らないような暴力を受けた。別のデモ隊列では、崖から落とされる学生も出たようだ。会場内では、学長代行が封鎖解除を決議しましたとひと言だけ宣言し、機動隊導入が決まったようだった。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿