2024年12月16日月曜日

#京都回想記#【34.大学3年生になって】

京都回想記【34.大学3年生になって】


 1969(昭44)年12月から、神戸で二度目の下宿を始めた。今度は東灘区の国鉄(JR)摂津元町駅前で、便利と言えば便利な場所だった。通学には国鉄より阪急線が便利で、北の方へ上ると阪急岡本駅があった。そこから二駅で阪急六甲に行ける。岡本駅周辺はかなり山手で道が狭くなっているが、センスの良いベーカリーやカフェなど、洒落た店が並んでいた。

 下宿先は元肛門科の医院の木造二階建てで、肛門科の看板がそのまま掲げられていた。院長の医師が亡くなって、未亡人が子供たちを育てながら、下宿を切り盛りしていた。下宿部屋は一階に入院用の部屋が3つ、別に元診療室の板間があって、ここはかなり広く水回りもあったので、自分はこの部屋を選んだ。

 板間の部分にホームコタツを置いて、冬の間中、コタツに潜り込んで過ごした。週に数回、大学に行くが、それ以外はほぼ部屋に籠って、文学書に読みふけっていた。あまり寒いので、一週間ばかり、インスタントラーメンなど啜って生活し、食料も尽きたので買い出しに外に出たところ、駅前は何と桜が満開でみごとに春になっていた。まるで冬眠から覚めたクマの気持ちだった。

 小説など文学書を読みふけり、生涯でいちばん読書した時期かもしれない。経済学部に上がっても学部の講義は退屈なのがほとんどで、唯一、卒論ゼミの演習で議論するのだけが楽しかった。とはいえ、発言するのはほぼ私だけで、担当教官と議論や雑談を交わすことが多かった。担当教官の新保教授は、経済学の研究だけでなく、クラシック音楽や文学にも詳しく、洒落た教養人だった。

 経済学部では、経済や経営の必修科目が数単位指定されているだけで、それ以外は自由選択科目とされていたので、文学部などに遠征して単位を取った。さすがに転籍までは考えなかったが、男ばかりの経済学部の授業より、女子も多くはなやかな文学部に通う方が多いぐらいだった。しかも文学に関しては、それなりの意見を持つようになっていた。

 文学部にも、演習形式の討論ができる授業があって、こちらは面白かった。国文学演習という講座で、谷崎や三島が好きな教官の授業に出た。出席者が回り持ちでレジュメを作って発表し、それに対して議論するという演習形式だった。私の担当の回では、谷崎の初期の「悪魔的」短編と言われるものを取り上げ、それを批評した。

 ヒロインを女王の位置にまでまつり上げ、自身はそこに跪拝するという典型的なマゾ構図で、その後も谷崎作品で何度も繰り返される。それ自体はいいのだが、その絵描き方がひたすら官能に酔うという直接的な描き方なので、その性的資質を持つもの以外は、それに入り込めない。つまり客観描写が欠落しているという点を指摘して、議論の中でもとことん否定するという立場を取った。

 議論が終わり担当教官が講評するのだが、谷崎ファンの教官は「たしかに君の言うとおりだが、さすがにそこまで言わなくても・・・」と脱力感想を述べた。そんな風に文学部に遠征して多くの単位を取ることになった。一種の道場破り的な楽しみもあったわけだ。

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