2024年10月22日火曜日

#京都雑記#【20.「京都三大祭り」まとめ】

京都雑記【20.「京都三大祭り」まとめ】


葵祭(5月)

 賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭りで、古くは賀茂祭と呼ばれた。祭の起源は、欽明天皇の567年、悪天候が続き占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるとされ、それを鎮めるために4月の吉日に祭礼を行うことになった。

 源氏物語など王朝文学にも登場するわが国でも最古の祭りで、その後何度も休止されるがそのつど復興され、戦後からは勅使代や斎王代を中心に、平安王朝風俗の行列が中心となっている。行列の本来の主役は勅使代であるが、今では華やかな斎王代がヒロインとなっている。現在では、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に路頭の儀の行列が行われる。

 中心祭事の路頭の儀では、王朝風俗の絢爛な衣装を身にまとった人々が、牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。なかでも加茂川に沿って加茂街道を進む光景は圧巻で、王朝絵巻を彷彿とさせる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B5%E7%A5%AD


祇園祭(7月)

 863年(貞観5年)疫病の流行により、疫病を鎮め無病息災を祈念するため御霊会(ごりょうえ)が行われたが、その後も富士の大噴火や貞観大地震などの天変地異が引き続き、国の数をだけの矛を立て、神輿を送り牛頭天王を祀る御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。

 やがて八坂祇園社(八坂神社)の祭祈として行われるようになり、もとは神輿渡御が中心だったが、さらに山鉾巡行の壮大な祭事に発展した。鎌倉時代末期には、町人衆による付祭の芸能も盛んになり、室町時代に至り、四条室町を中心とする下京地区に商工業者(町衆)の自治組織の町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。

 応仁の乱以降何度も中断されるが、その都度再興されたが、江戸期の京都の三大火事によって、祇園祭の山鉾も大きな被害を受けた。戦後には次々と山鉾が復興され、現在では前祭・後祭を合わせて7月一ヵ月に及ぶ町衆の盛大な祭りとして繰り広げられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD


時代祭(10月)

 1895(明28)年、平安遷都から1100年目を記念し、平安遷都千百年記念事業として、内国勧業博覧会と時期を合わせて挙行された。3月に「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。その紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在にまで続いている。

 平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿を京都御所まで神幸させて祭典を執り行い、ふたたび平安神宮へ還御するが祭祈であるが、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。

 行列は8つの時代、20の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、年代が新しい順に、最初は明治維新から始まり、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続く。葵祭は平安王朝の風俗行列だが、時代祭は平安朝から明治維新に至る時代を網羅した行列であり、約3時間に及ぶ長い行程となる。現在では、正午に京都御所を出発し、京都の中心部を練り歩き平安神宮に至る約4.5キロとなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD

2024年10月15日火曜日

#京都回想記#【25.高校時代 4】

京都回想記【25.高校時代 4】


 高一になったころは、まだ中学生気分が抜けず、あまり女子も意識することがなかった。二学期になって、われわれ3人がクラスで一緒にいることが多くなった。その時期に、クラスに女子でも仲良しグループの4人がいて、なんとなくわれわれと相性がよさげで、たまにちょっかいを掛け合う場面もあった。とはいえ、とくにグループ交際とか個人的に付き合うとかは無くて、子供のお遊びレベルでしかなかった。

 「青い山脈」のような青春ロマンがあれば良いのだが、実際はその気配さえなかった。書くほどの何もないのだが、今後とも書くことも無いだろうから、この機会に少し書いておこう。とにかくわれわれのグループは、A君、K君、と私Sとしておこう(高二からM君が加わるのだが、この時は登場しない)。そして、多少ながら交流があった女子の4人グループは、A子、M子、O子、S子としよう。

 たまたま、それぞれグループで、クラスで一緒に行動しだしたのは、高一の二学期からだった。先に書いたが、その中でもなんとなくO子が気になる存在だったが、まったく口をきいたことも無かった。女子グループでリーダー的存在はM子で、地方新聞の読者投稿欄にわたしが稚拙な投稿をしたのを目ざとく見つけて、それを指摘されて恥ずかしい思いをしたりした。

 



自分にはその中に気になる女子がいたが、それ以上には何でもなかったので誰かに言うとかはなかった。そのうち、仲間のだれかが彼女を好きだという噂が流れてきて、自分の思いはよけいに言い出しにくくなっていた。そのうち仲間の一人が、また別の女子を好きだと言い出した。相手グループの一人は、私たちの間に映画を見に行ったカップルがいるんよ、とか言い出した。


2024年10月13日日曜日

#京都回想記#【24.高校時代 3】

京都回想記【24.高校時代 3】


 一年生での教室は、校地の最奥のプレハブ校舎だったが、他クラスとの接点も少なく、その分クラス生徒の結びつきは強めになった。当初は、中学時代の同級生らとの付き合いが多かったが、そのうち他中学出身者とも付き合いができるようになった。中でもAやKとは、夏休みごろから密接に付き合うようになった。

 Aは、他の街で一旦高校を中退して、あらためて紫野高校に入学し直したので、一年分の歳を食っていた。その分、いろんなことをよく知っており、元来の社交的性格もあって、多くのクラス仲間を引き付けた。10人ぐらいを引き連れて繁華街に出ると、喫茶店や食堂など、中学生までは行ったことも無い店でも、平気で入って行った。

 Kもまた話が上手で、多くの生徒に人気があり、顔が広かった。AとKの様子を見て、この二人とより親密になりたいと思っていたが、二学期に入ること、われわれ三人が連れ立って、学校周囲をうろつくことが多くなった。二人はそれぞれ生徒間に人気があったが、自分には社交性がなく、この二人を通じてはじめて他の仲間とも接点を結べた。

 それでも多くのやんちゃで個性的な奴らと接点ができて、やたら高校生活が楽しくなった。そういうヤンチャ仲間のたまり場となったのが、今宮神社のあぶり餅屋の座敷であった。今宮神社参道に「一和」と「かざりや」が向い合せに営業していて、われわれの学年は、もっぱら「かざりや」に居座った。

 授業はサボって、奥座敷に上がり込んで、まる一日すごすこともあった。あぶり餅は一人前50円で、土瓶にいれたお茶はお替わり自由、それで一日居座っても文句は言われない。碁盤や将棋盤が置いてあり、座布団を囲んで花札でも遊んだ。わずかな小遣いを賭けて遊んでたら、襖の向こうから「お前ら、何してる」という教師らしい声がした。

 慌てて座布団を返して花札を隠し、吸い殻で一杯の灰皿をひっくり返すやら大騒ぎ、パニック状態で廊下に逃げ出す奴もいた。一段落つくと、実は遅れてやってきた仲間の一人が、教師の声色を使っていたずらしたのだと分かって、そいつはフクロ状態w かざりやは裏木戸から街道に出れるのだが、一和は行き止まりで古井戸に飛び込むよりほかない、かざりやでよかったと、変な自慢をする奴もいた。


2024年10月12日土曜日

#京都回想記#【23.高校時代 2】

京都回想記【23.高校時代 2】


 入学した時は、まだ正門や本館は建築途中で、かなりオンボロの木造旧校舎のままだった。東側今宮門前通に面した正門を入ると右手には、まだ旧女学校時代の木造校舎が使われていて、石畳の通路をさらに奥に進むと石段を上って、高台にでる。丘の上と呼んでたそこには、体育館やちょっとした広場がある。

 団塊世代のピークにあたるわれわれが入学すると、新館はまだ建築中で教室が足りなくなり、その丘の上に空き地に急造のプレハブ教室が作られ、それがわがクラスの教室だった。何ともみすぼらしい教室だが、ここで一年生の期間、楽しく過ごした。施設や設備は貧弱だが、一歩外へ出ると大徳寺や今宮神社の境内に囲まれ、さらに南には船岡山公園があり、緑豊かな環境に恵まれていた。

 高校では校則で縛られるもことも無く、自由に振舞えた。制服も無く、学外に出るのも自由、多くの教師は出欠も取らず、たとえ欠課となっても1/3以内なら大丈夫と聞いていた。そんなわけで、しょっちゅう授業をサボり、仲間と校外をうろついた。周辺は大徳寺の境内や今宮神社や船岡山など、時間をつぶす場所には事欠かない。

 なかでもサボり組み連中がたむろしたのは、今宮神社参道にある「あぶり餅」だった。向い合せに二軒あるうち、われわれの学年は「かざりや」と決まっていた。なぜか、一和とかざりやに、学年ごとに向い合せに対峙して、たまり場としていた。通学のとおりみちなので、学校に行く前に立ち寄ってみると、かならず誰か仲間たちが居て、そのまま上がり込んで放課後になるまで遊んでることも多かった。

 ほかにも、仲良し仲間と近隣の喫茶店めぐりをした。あるとき、学校の裏の方に新しい喫茶店ができたと聞いたので、いつもの仲間で行ってみた。「珈琲舎」という小じんまりした店で、定年退職した老齢の夫婦が、喫茶店をもつのが長年の夢で開いたという。ご主人のマスターは、小柄でワイシャツに蝶ネクタイという洒落た装い。一方の奥さんは、割烹着をまとって、てきぱきとウェイトレスにいそしんでいる。注文を聞きに来たのでレモンティーを頼むと、「レモンテーですね」と鶯のような声で復唱してくれた(笑)

2024年10月11日金曜日

#京都回想記#【22.高校時代 1】

京都回想記【22.高校時代 1】


 昭和39(1964)年4月に「京都市立紫野高校」に入学した。京都市内の公立高校は京都府立が大半だが、京都市立も4校ほどある。紫野高校も、戦後になってその一つとして、大徳寺の旧寺域に京都市立として創設されたものである。

 戦前にはこの地に、臨済宗各派連合の運営になる「般若林」という僧侶養成機関があった。その後、学制変更で「(旧制)禅門立紫野中学」となり、ここには小説「雁の寺」を書いた、直木賞作家の水上勉が、妙心寺や等持院で小僧として修業中に通わされていたという。一方で、同じ敷地内には、私立の「淑女高等女学校」もあったという。

 戦後になって新制高校生が急増したため、旧制中学を新制高校に学制変更するだけでは足りず、あらたに新制高校が幾つも増設され、その一校が京都市立紫野高校として誕生した。したがって、戦前の旧制紫野中学とは、まったく関係ない新設の新制高校として、昭和27(1952)年に開校した。私たちの学年は、その15期生ということになる。

 開校時の様子はよく分からないが、初代の林校長は私たちが入学した時も現役で、校内をふらふら巡回していた。ズボンから日本手拭いをぶら下げ、用務員と間違うような構わないなりで、何か話すことも無く校内を巡回していた。聞くところによると、開校準備には新規の生徒たちと、散在しているの墓石などを脇に除けて、グラウンドの整備などしたという。

 開校から15年近く校長を務め、新規校に過ぎなかった紫野高校を、「自由と規律」という生徒を縛らない校則で、自由で自主的な校風を作り上げた。校歌も校内公募で制定するなど、どこまでも民主的な学校運営をした。我々が高3になった時、林校長は定年を迎え、退任挨拶のあと、生徒たちの万雷の拍手を浴びながら引退していった。

 そんな校風で、自由で開放的な高校生活を満喫した。制服制帽などは無く、学外への出入りも自由、成績がよかろうが悪かろうが誰にも文句を言われない、出席時間数も、1/3以上の欠課にならなければ大丈夫で、生徒手帳に「正の字」を記して欠席管理をしてた。そもそも半数以上の教師は出欠も取らなかった。進路指導も進学指導も、3年間一度も受けた記憶が無い。自主自由と言えば聞こえがいいが、早い話が自由放任で、自分の意志でやれという無言の方針だった。

 当然ながら、一年生の時から勉学を忘れて遊び倒す。成績はどんどん下がるが、そのうち何とかなるだろうと好い気なもんだった。高校三年間を遊び倒して、一浪して適当な大学に潜り込むというのが定番で、これを「四年制公立高校」と自称していた。おかげさまで、高校での三年間では、それまでの十年分ぐらいのいろいろな経験をした。

2024年10月8日火曜日

#京都回想記#【21.中学三年生、最終学年】

 京都回想記【21.中学三年生、最終学年】


 昭和38(1963)年4月に、中学最終学年の三年生となった。新しい教室はグラウンドから高い段差の階段をン上った高台にあって、東下にグラウンド、さらにその向こうの東山連峰には、ひときわそびえ立つ比叡山が望める。授業中も、ひたすら窓の外の景色を眺めてたw

 クラスも結構賑やかな連中がそろっていて、常に一緒に連れ歩くような仲の良い友達もできた。そのため、クラスでも中心的なグループとして、昨年度とは違って、快適な学級生活を過すことになった。中三になっても特に進学を意識することも無く、適当に定期試験に間に合わせる程度だった。ただ三年生になると、高校進学希望者は、民間業者の模擬テストを受けるように指導され、年間8度ほどある模擬試験を受けた。

 京都市内の進学希望者がほぼ受けるので、1万人近くが受けるテストだった。第一回目は隣の加茂川中学校で受けるなど、普段ないような雰囲気で結構楽しかった。現在ではありえないが、
試験の結果は点数順に上位100位までが発表された。自分は普通に受けてとりわけよくできたという感覚もなかったが、結果は上位から3番目の得点だったようだ。なんか気抜けして、その後の最終学年は仲間と遊び倒した。以後の模擬テストは、当然低下する一方だったが、それでも100位までのリストには顔を連ねていた。

 修学旅行はこの時期、公立の小学校は伊勢、中学校は東京、
高校は九州というのがほぼ決まっていた。当時の国鉄では、修学旅行専用列車を走らせていた。京都から東京まで直通で走るので、引率教師は乗り降りの心配をしなくて済むので重宝しただろうが、ダイヤの合間をぬって進むので、1時間ぐらい駅で待機とかが平気であって、ほぼ10時間ほど掛かった。都内観光は貸切バスで、浅草・国会前・東京タワーなど定番コースまわったが、前夜の旅館での枕投げなどで、バス内ではほぼ全員い眠っていた。

 年が明けて三学期になると、早々に一部の私立高の受験が始まる。50人学級のうち、1/3が公立高、さらに1/3が私立高、残りは就職組という風に分かれる。当時は特別な進学高も無く、上位組はほぼ近くの公立校に進む。それ以外が私立ということになる。なんとなく受験を済ませたら地域の公立高校に決まった、という感じだった。そんなわけで、小学校から高校まで、すべて徒歩で通える範囲で、みんなと決まったコースを歩むという風に、これという変化も無い学生生活だった。