京都雑記【20.「京都三大祭り」まとめ】
葵祭(5月)
賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭りで、古くは賀茂祭と呼ばれた。祭の起源は、欽明天皇の567年、悪天候が続き占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるとされ、それを鎮めるために4月の吉日に祭礼を行うことになった。
源氏物語など王朝文学にも登場するわが国でも最古の祭りで、その後何度も休止されるがそのつど復興され、戦後からは勅使代や斎王代を中心に、平安王朝風俗の行列が中心となっている。行列の本来の主役は勅使代であるが、今では華やかな斎王代がヒロインとなっている。現在では、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に路頭の儀の行列が行われる。
中心祭事の路頭の儀では、王朝風俗の絢爛な衣装を身にまとった人々が、牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。なかでも加茂川に沿って加茂街道を進む光景は圧巻で、王朝絵巻を彷彿とさせる。
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祇園祭(7月)
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祇園祭(7月)
863年(貞観5年)疫病の流行により、疫病を鎮め無病息災を祈念するため御霊会(ごりょうえ)が行われたが、その後も富士の大噴火や貞観大地震などの天変地異が引き続き、国の数をだけの矛を立て、神輿を送り牛頭天王を祀る御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。
やがて八坂祇園社(八坂神社)の祭祈として行われるようになり、もとは神輿渡御が中心だったが、さらに山鉾巡行の壮大な祭事に発展した。鎌倉時代末期には、町人衆による付祭の芸能も盛んになり、室町時代に至り、四条室町を中心とする下京地区に商工業者(町衆)の自治組織の町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。
応仁の乱以降何度も中断されるが、その都度再興されたが、江戸期の京都の三大火事によって、祇園祭の山鉾も大きな被害を受けた。戦後には次々と山鉾が復興され、現在では前祭・後祭を合わせて7月一ヵ月に及ぶ町衆の盛大な祭りとして繰り広げられる。
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時代祭(10月)
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時代祭(10月)
1895(明28)年、平安遷都から1100年目を記念し、平安遷都千百年記念事業として、内国勧業博覧会と時期を合わせて挙行された。3月に「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。その紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在にまで続いている。
平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿を京都御所まで神幸させて祭典を執り行い、ふたたび平安神宮へ還御するが祭祈であるが、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。
行列は8つの時代、20の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、年代が新しい順に、最初は明治維新から始まり、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続く。葵祭は平安王朝の風俗行列だが、時代祭は平安朝から明治維新に至る時代を網羅した行列であり、約3時間に及ぶ長い行程となる。現在では、正午に京都御所を出発し、京都の中心部を練り歩き平安神宮に至る約4.5キロとなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD
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