2024年10月11日金曜日

#京都回想記#【22.高校時代 1】

京都回想記【22.高校時代 1】


 昭和39(1964)年4月に「京都市立紫野高校」に入学した。京都市内の公立高校は京都府立が大半だが、京都市立も4校ほどある。紫野高校も、戦後になってその一つとして、大徳寺の旧寺域に京都市立として創設されたものである。

 戦前にはこの地に、臨済宗各派連合の運営になる「般若林」という僧侶養成機関があった。その後、学制変更で「(旧制)禅門立紫野中学」となり、ここには小説「雁の寺」を書いた、直木賞作家の水上勉が、妙心寺や等持院で小僧として修業中に通わされていたという。一方で、同じ敷地内には、私立の「淑女高等女学校」もあったという。

 戦後になって新制高校生が急増したため、旧制中学を新制高校に学制変更するだけでは足りず、あらたに新制高校が幾つも増設され、その一校が京都市立紫野高校として誕生した。したがって、戦前の旧制紫野中学とは、まったく関係ない新設の新制高校として、昭和27(1952)年に開校した。私たちの学年は、その15期生ということになる。

 開校時の様子はよく分からないが、初代の林校長は私たちが入学した時も現役で、校内をふらふら巡回していた。ズボンから日本手拭いをぶら下げ、用務員と間違うような構わないなりで、何か話すことも無く校内を巡回していた。聞くところによると、開校準備には新規の生徒たちと、散在しているの墓石などを脇に除けて、グラウンドの整備などしたという。

 開校から15年近く校長を務め、新規校に過ぎなかった紫野高校を、「自由と規律」という生徒を縛らない校則で、自由で自主的な校風を作り上げた。校歌も校内公募で制定するなど、どこまでも民主的な学校運営をした。我々が高3になった時、林校長は定年を迎え、退任挨拶のあと、生徒たちの万雷の拍手を浴びながら引退していった。

 そんな校風で、自由で開放的な高校生活を満喫した。制服制帽などは無く、学外への出入りも自由、成績がよかろうが悪かろうが誰にも文句を言われない、出席時間数も、1/3以上の欠課にならなければ大丈夫で、生徒手帳に「正の字」を記して欠席管理をしてた。そもそも半数以上の教師は出欠も取らなかった。進路指導も進学指導も、3年間一度も受けた記憶が無い。自主自由と言えば聞こえがいいが、早い話が自由放任で、自分の意志でやれという無言の方針だった。

 当然ながら、一年生の時から勉学を忘れて遊び倒す。成績はどんどん下がるが、そのうち何とかなるだろうと好い気なもんだった。高校三年間を遊び倒して、一浪して適当な大学に潜り込むというのが定番で、これを「四年制公立高校」と自称していた。おかげさまで、高校での三年間では、それまでの十年分ぐらいのいろいろな経験をした。

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