京都雑記【15.京都の大火と街並の変遷】
江戸時代における京都の三大大火は、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。
>「餃子の王将」京都で相次ぐFC店の閉店 独自のサービス人気、惜しむ声 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/702811
>「学生はお皿洗いすると無料」をうたった出町店も、2020年末に閉店
https://kotocollege.jp/archives/4959
住まいを改造した店舗などで家族経営だから、店舗コストや労働コストが低いので、安くてボリュームのある定番メニューを提供できたのだった。いずれにしても残念なことだ。
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw
さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
https://www.youtube.com/watch?v=tOjolKgi4h4
そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」
https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ
https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA
夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。
入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。
受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。
そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)
(2021.12.08追記2)
さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」
https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12
この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。
一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。
私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。
写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。
『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの
(2021.12.08追記3)
「風/はしだのりひことシューベルツ」
https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s
フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。
さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動で、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。
1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。
足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。
吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。
一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。
水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。
高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。
水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭湾沿岸のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。
記念祭式典は、勧業博開催中の4月に催される予定だったが、諸事情で延期され、10月22日から3日間にわたって挙行された。そして10月25日に行われた時代行列は、翌年以降、平安神宮の「時代祭」として、毎年この時期に開催されるようになり、葵祭・祇園祭とともに京都の三大祭りとされている。