2022年3月16日水曜日

#京都雑記#【16.正道官衙遺跡(城陽市)】


京都雑記【16.正道官衙遺跡(城陽市)】(2022.03.16)


 今の住いの近くに「正道官衙(しょうどうかんが)遺跡」というのがある。旧知の友人と爺二人で、久しぶりに行楽がてら出かけた。といっても、パック寿司とノンアルビールで数時間しゃべくっていただけだが。


 このあたりは久津川古墳群と呼ばれ、前古墳時代からの小規模古墳が散在している。芝ケ原古墳は、前方後円墳以前の最古級の方墳として注目された。ここ正道の地でも瓦片や土器片が見つかり発掘が進められると、古代の複合遺跡であることが分かってきた。そして最も広域に展開した掘立柱建物群跡が見つかり、これは奈良時代初期の官衙遺構であり、山城国久世郡の郡衙が置かれていたと推定される。

 官衙とは平城京の出張所であり、都にいたる主要な街道を守る関所や砦でもあったと考えられる。発掘が済まされた「正道官衙遺跡」は史跡公園として整備され、南門や庁屋跡の柱穴には模造柱が建てられ、当時の構造物の骨格が復元されている。そして周囲の遊歩道には、万葉植物が植えられ、それにゆかりの万葉短歌の歌碑がそえられている。

 南門から官衙跡に入ると、真っすぐ北に一直線の道が伸びて、正面に政務を執る庁屋が広がる。両側はひたすら平地が広がるだけである。われわれ二人の老人は、都からの使いよろしく庁屋に向かって進む。庁屋に設けられたベンチには、郡の長官ならぬお爺さんがひとりコンビニお握りをほうばっていた。

 われわれもその隣に腰かけて、パック寿司を広げた。桜も一部咲きはじめまさに春うらら、国の長官が仕切る位置から南面に広がる空き地を眺めると、万葉の時代のうららかな世界が浮かんでくるようだった。こうやって半日を楽しく過ごしたが、それに掛けた費用はパック寿司など千円以下だった(笑)

あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり



2022年2月14日月曜日

#京都雑記#【15.京都の大火と街並の変遷】

京都雑記【15.京都の大火と街並の変遷】


 宝永5(1708)年3月8日午の下刻、京都の油小路通三条あたりから出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヵ町、10,351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。

 江戸時代における京都の三大大火は、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。

 宝永の大火では、火災後「見渡せば京も田舎となりにけり 芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られるなど、京都御所とその南部一帯が焼け出された。そのため火災後、一部の町及び民家が鴨川の東などに丸ごと移転され、京都の市街が鴨東(おうとう)地域に拡大されることになった。

 当時の京都御所周辺には、公家の屋敷と町屋が混在していたが、焼失した禁裏の周りに公家邸を集中させ、混在していた町屋は鴨東の二条川東に広がる畑地に移転させた。町並み丸ごと移転させたため、この地域には、新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新東洞院通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通など、新の字を頭につけた通り名がたくさん出来たという。

 これらは本来、御所の南側に南北に走る通りの名で(丸太町通のみは東西)、これらの京都の中心街を知る人にとっては、このまったく別場所に出来た新地名をみると驚かされる。

 これをきっかけに、洛外で畑地でしかなかった鴨川の東に町屋が広がるようになったらしい。そして大火で焼けた禁裏周辺には、散在していた公家屋敷を集中させたのだが、1864年の「禁門(蛤御門)の変」で、御所の周りが「どんどん焼け」と呼ばれる大火でまる焼けとなってしまった。

 そして明治維新で東京遷都となると、帝とともに公家屋敷も東京へ移転して、御所周辺は荒れ放題となった。維新政府の重鎮となった岩倉具視が、その状態を憂え整備を命じた結果、御所周辺が公園化され、いまの京都御苑公園となったのである。



(追記)2025/03/13
 子供の頃、落ち葉などのたき火を「どんどん焼き」と呼んでた。

 近くの神社で、正月の門松や飾り物を焼く供養の儀式も、「どんどん焼き」ないし「どんど焼き」と呼んだ。これは宮中の小正月(1月15日)に起源をもつと言われる「左義長」とも呼ばれるようだ。

 さらに、密教の修法として毎月28日に行われる「護摩供養」(ごまくよう)も、同じく遊び場だった神社の境内で行われた。山伏の装束をまとった人たちが呪文をとなえながら、各自が奉納した護摩木をくべる行事だった。これも区別なしで「どんどん焼き」だった。





2022年2月4日金曜日

#京都雑記#【14.京都岡崎公園と文化施設の今】

京都雑記【14.京都岡崎公園と文化施設の今】


 京都の岡崎の地は、京都市左京区の南部に存在する地域であり、この地は平安時代に法勝寺など大寺が建ち並ぶ故地であったが、その後の戦乱で灰燼に帰しており、幕末維新のころには空き地が広がっていた。しかし1895(明治28)年、この岡崎地域で平安遷都千百年紀念祭と第四回内国勧業博覧会が実施されることになり、この地域が再開発された。

 当初は平安京の大極殿の地域が予定されたが、紀念祭や博覧会を実施できる空き地は無く、完成したばかりの蹴上疎水が流れ、利便がよくなったこの岡崎が着目された。平安京の大内裏の復元が計画され、平安京の正庁であった朝堂院を模して「平安神宮」が造営され、実物の8分の5の規模で復元された。

 この会場跡地はその後整備が進められ、1900(明治33)年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご成婚に合わせて動物園の開設が決定され、1903年(明治36年)4月1日、東宮御慶事記念動物園として開園する。これが現在の「京都市動物園」で、市民には岡崎動物園と呼ばれて親しまれており、東京上野動物園に次いで日本で2番目に古い動物園である。

 同時に勧業博覧会場跡地は「岡崎公園」と称され、公園内には1909(明治42)年に「京都府立図書館」が移転設置され、さらにいくつもの文化施設が設置されてゆく。1933(昭和8)年に「京都市美術館」が開館、1937(昭和12)年には「京都市立勧業館」が竣工した。戦後にも、1960(昭和35)年に「京都会館」、1962(昭和37)年には勧業館別館が改装され「京都国立近代美術館」となった。

 勧業博にさいしては、京都七条(現JR京都駅)から岡崎勧業博会場まで、日本最初の市街電車で結ばれ、その電力はこれまた日本最初の蹴上水力発電所の電力でまかなわれた。岡崎は、上記文化施設等とともに、まさに京都近代文化の起点となったのである。

 これらの文化施設は老朽化が進んだため、近年に次々と改装改築された。京都市勧業館は全面的に建替えら、通称「みやこめっせ」とされて、京都府最大の展示場延べ面積を誇るイベント会場となった。京都市動物園も全面的にリニューアルされ、新しい展示様式とともに市民のリクレーションの場となった。

 ほかにも、京都市立美術館が全面リニューアルされ「京都市京セラ美術館」となり、京都会館は改築改修にともなって「ロームシアター京都」となったが、前川國男設計京都会館は文化財として重要とする異議もはさまれた。

 しかし「京セラ美術館」や「ロームシアター」という新たな呼び名は、いわゆるネーミングライツという命名権売却によって企業名がかぶせられることになり、古くからの市民には元の施設が何か分からないという声も寄せられている。

 ほかにも、岡崎ではないが、「わかさスタジアム」だの「たけびしスタジアム」だのと言われると、もはやどこにあるのかもわからない。それぞれ「西京極球場」や「西京極運動競技場」の時代が懐かしいと思うのは、もはやロートル化した元市民の泣き言でしかないのか(笑)

2022年1月7日金曜日

#京都雑記#【13.「餃子の王将」で相次ぐ個人経営FC店の閉店】

京都雑記【13.「餃子の王将」で相次ぐ個人経営FC店の閉店】


>「餃子の王将」京都で相次ぐFC店の閉店 独自のサービス人気、惜しむ声 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/702811

 そもそも「餃子の王将」はフランチャイズチェーンといっても、従来の個人経営が加盟した店舗が多かった。マクドナルドみたいな徹底したマニュアル化などはなくて、ベース食材を共同仕入れする程度の縛りしかなかった。

 昭和50年代のはじめに四条大宮近くに住んだとき、すぐ近くの狭いビルの二階に、安くておいしい中華料理店を見つけて、よくかよった。いま思うとそれが「餃子の王将」の一号店で、現在はその隣の大きなビルに移転しているようで、その脇に「餃子の王将 発祥の地」と看板が掲示されている。

 その後数年は京都を離れていて、やがて京都府南部の山城地域に定住することになったが、当時王将は郊外に大型直営店を展開しだしていた。しかしバブルがはじけると、店舗施設の負担が大きいのか、料理の味もボリュームも低下した。

 一方の個人経営店は、相変わらず安くてうまいままだった。その後直営店の品質も改善し、かつての安くてうまい王将がもどってきたが、今度は個人経営店が、店主の高齢化などで閉じる店が増えてきた。それがコロナ騒ぎで加速したのかもしれない。


>「学生はお皿洗いすると無料」をうたった出町店も、2020年末に閉店
https://kotocollege.jp/archives/4959

 住まいを改造した店舗などで家族経営だから、店舗コストや労働コストが低いので、安くてボリュームのある定番メニューを提供できたのだった。いずれにしても残念なことだ。

2021年12月7日火曜日

#京都雑記#【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】

京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】


◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム

*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。


 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。

 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。


 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。

 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。


 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。

https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。

https://www.youtube.com/watch?v=tOjolKgi4h4

 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。

「悲しくてやりきれない」


 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。


 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。

「日本のフォークブーム」

https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930


(2021.12.07追記)

「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ

https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA

 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。

 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。


 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。

 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。


 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)


(2021.12.08追記2)

さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。

「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」

https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12


 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。

 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。


 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。

 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。

 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。


『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ

野に咲く花の 名前は知らない

だけども野に咲く 花が好き

ぼうしにいっぱい つみゆけば

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない

だけど私に 父はいない

父を想えば あヽ荒野に


赤い夕陽が 夕陽が沈む

いくさで死んだ 悲しい父さん

私はあなたの 娘です

二十年後の この故郷で

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていて下さい はるかな父さん

いわし雲とぶ 空の下

いくさ知らずに 二十才になって

嫁いで母に 母になるの


(2021.12.08追記3)

「風/はしだのりひことシューベルツ」

https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s


 フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。


 さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動で、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。


 この井上博は、実は実家の近くの商店街で、イノハツという屋号のタバコ屋の息子だった。小学校から高校までずっと、二学年上で在籍していたのを憶えている。直接言葉をかわしたおぼえはないが、近くの神社で一緒に遊んだような記憶もある。テレビではライトなどで色白でハンサムに見えていたが、実物の本人はどす黒い顔色をしていて、子供のころから、内臓が悪かったのではないかと思った。


2021年11月23日火曜日

#京都雑記#【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】

京都雑記【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】


 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。


 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。


 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。


 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。


 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。


 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。


 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭湾沿岸のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。


 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。


2021年9月9日木曜日

#京都近代化を遡る#【06.平安遷都千百年記念事業】

京都近代化を遡る【06.平安遷都千百年記念事業】


 「平安遷都千百年記念祭」は平安遷都から1100年目を記念し、1895(明28)年、第4回「内国勧業博覧会」と時期を合わせて挙行された。3月には「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。25日には紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在に続いている。

 内国勧業博覧会は、1877(明10)年から東京上野公園で、第1回から第3回まで開催された。そして、平安遷都千百年紀念祭にあわせての強い誘致運動の結果、1895(明28)年の第4回内国勧業博覧会の開催地は京都に決定された。京都市の政財界は総力を挙げて誘致活動を展開し、国務大臣も関与する国家的な行事とされた。

 内国勧業博の開催地は岡崎(現左京区)の地に決定され、まず記念事業として、この地に平安宮朝堂院大極殿と応天門を、実物の8分の5の規模で復元した神殿が造営され、桓武天皇を奉祀する「平安神宮」として3月に完成した。

 記念祭式典は、勧業博開催中の4月に催される予定だったが、諸事情で延期され、10月22日から3日間にわたって挙行された。そして10月25日に行われた時代行列は、翌年以降、平安神宮の「時代祭」として、毎年この時期に開催されるようになり、葵祭・祇園祭とともに京都の三大祭りとされている。

 勧業博の会場となった当時の岡崎は、水田と蕪(かぶら)畑が広がる土地だったが、その地に、工業館・農林館・器械館・水産館・美術館・動物館や各府県の売店飲食店などが建てられた。出品点数17万点、入場者は4月1日から4か月の会期中、113万人をこえる盛況だった。

 大事業となった琵琶湖疎水が開通しており、そこに設置された蹴上発電所で発電される電気を利用し、「京都電気鉄道会社」によって日本最初の市街電車が走り、勧業博開催にあわせて七条停車場(京都駅)と博覧会場が結ばれて、博覧会場への足となった。こうして、博覧会開催は京都の経済・文化の復興と再生に大きな役割を果たしたのである。

 ほかにも、平安遷都千百年紀念祭を行うに際して、平安京をひらいた桓武天皇のゆかりの寺社名勝遺跡保存のための補助が、熊野神社拝殿・坂上田村麻呂の墓・東福寺山門・神泉苑・長岡京遺跡など31件に適用された。

 また記念事業のひとつとして平安京の実測事業がなされ、羅城門の位置が確定され、「羅城門遺址(南区唐橋羅城門町)」の石標がその地に建てられ、大極殿の位置も実測して定められ、「大極殿遺阯(上京区千本丸太町上ル)」の石標が建てられている。

 そして、記念祭や博覧会で海外や全国各地から京都を訪れる観光客のために、京都の寺社は特別拝観を実施し、建物や宝物を一般公開した。これは、「近代観光都市京都」という新しい顔を全国に発信するとともに、廃仏毀釈の波に襲われた寺院仏閣の復活の起点ともなった。

 平安遷都千百年記念祭と第4回内国勧業博覧会の主会場となった岡崎公園は、その後、次々と施設が設置され整備されていく。京都市美術館(京セラ美術館)・京都国立近代美術館・京都会館(ロームシアター京都)・京都市勧業館(みやこめっせ)・岡崎グラウンド・京都府立図書館・京都市動物園など、平安神宮を核に京都の文化・観光・産業施設が集積し、琵琶湖疏水の水路が脇を流れている。