2024年12月17日火曜日

#京都回想記#【35.いつのまにか4年生】

京都回想記【35.いつのまにか4年生】


 ほとんど下宿部屋で、夜昼逆転したような生活を送っていた。本を読んだり夜食をつまんだり、そうこうしているうちに夜が明けそうになり、始発電車がガタゴト動き出す音を聞きながら眠りに落ちる。週に一回だけのゼミの演習だけは楽しいので、寝る時間を少しずつずらせて、ゼミの日には昼間に起きて出席することにしていた。

 いつの間にやら一年が過ぎて、4年生になってしまった。当時は高度成長期の余波で、まだまだ企業は大量に新卒大学生を採用していた時期のため、ほとんど就職の心配は要らなかった。青田刈りといって、企業は出来るだけ早く優秀な学生を採用していたので、4年生の4月にはすでに就職活動が始まっていた。

 私は就職にもあまり気乗りがせず、しばらく就職活動をしなかったが、周囲がほとんど内定を取ってたので、しかたなくゼミ教官の新保先生に、適当なところが残ってないかと尋ねに行った。横着なゼミ生にもかかわらず、先生は手元に来ている求人会社をニ三紹介してくれた。ほぼ名前を聞き知っている大手会社ばかりだったが、国内資本の某石油会社の面接を受けることになった。

 東京本社で面接を受けて、すぐに内定をもらった。そのうち夏休みになると、ドカッと創業者の自伝などの著作を送ってきて、読んでおけという。噂には聞いていたが、英雄的な伝説をもつ創業者は、一方で有名な国粋主義者だった。つい先日まで米帝日帝打倒などと叫んでいた世界からは、正反対の世界に接して戸惑うばかりで、そのまま就職する気には成れなかった。

 うちの大学の学生、とくに経済や経営学部の学生は、研究者や高級官僚を目指すわけではなく、はなから大手企業に就職するつもりのものがほとんどだ。そういう意味では、毛色の変わったユニークな学生はほとんどいなくて、一流半の面白みのない学生が多かった。前身の旧神戸高商の時代から、「番頭さん養成学校」などと呼ばれ、もっぱら実業志向だった。ちょうどこの時期は、銀行や商社が人気だった。関西系の大手商社なら、京大・阪大・神大とそれぞれ数十人の採用枠が定められているとされ、先着順でほぼ内定が取れた。

 当時の成績の評定は優・良・可・不可ときわめて大雑把で、不可以外は単位が取得できた。真面目に講義に出てきっちりノートを取ってる同級生がいて、期末試験のある科目で、答案がうまく書けず、良になりそうなので提出しなかったという。彼は三井・三菱という関東系の最大手を目指していて、さすがにそのレベルだと、優をそろえないと難しいらしい。私は卒業必要最小単位さえ取れたらいいので、もったいないなあ、代わりに答案にワシの名前を書いて出してくれたらいいのに、というような笑い話をしたもんだ。





2024年12月16日月曜日

#京都回想記#【34.大学3年生になって】

京都回想記【34.大学3年生になって】


 1969(昭44)年12月から、神戸で二度目の下宿を始めた。今度は東灘区の国鉄(JR)摂津元町駅前で、便利と言えば便利な場所だった。通学には国鉄より阪急線が便利で、北の方へ上ると阪急岡本駅があった。そこから二駅で阪急六甲に行ける。岡本駅周辺はかなり山手で道が狭くなっているが、センスの良いベーカリーやカフェなど、洒落た店が並んでいた。

 下宿先は元肛門科の医院の木造二階建てで、肛門科の看板がそのまま掲げられていた。院長の医師が亡くなって、未亡人が子供たちを育てながら、下宿を切り盛りしていた。下宿部屋は一階に入院用の部屋が3つ、別に元診療室の板間があって、ここはかなり広く水回りもあったので、自分はこの部屋を選んだ。

 板間の部分にホームコタツを置いて、冬の間中、コタツに潜り込んで過ごした。週に数回、大学に行くが、それ以外はほぼ部屋に籠って、文学書に読みふけっていた。あまり寒いので、一週間ばかり、インスタントラーメンなど啜って生活し、食料も尽きたので買い出しに外に出たところ、駅前は何と桜が満開でみごとに春になっていた。まるで冬眠から覚めたクマの気持ちだった。

 小説など文学書を読みふけり、生涯でいちばん読書した時期かもしれない。経済学部に上がっても学部の講義は退屈なのがほとんどで、唯一、卒論ゼミの演習で議論するのだけが楽しかった。とはいえ、発言するのはほぼ私だけで、担当教官と議論や雑談を交わすことが多かった。担当教官の新保教授は、経済学の研究だけでなく、クラシック音楽や文学にも詳しく、洒落た教養人だった。

 経済学部では、経済や経営の必修科目が数単位指定されているだけで、それ以外は自由選択科目とされていたので、文学部などに遠征して単位を取った。さすがに転籍までは考えなかったが、男ばかりの経済学部の授業より、女子も多くはなやかな文学部に通う方が多いぐらいだった。しかも文学に関しては、それなりの意見を持つようになっていた。

 文学部にも、演習形式の討論ができる授業があって、こちらは面白かった。国文学演習という講座で、谷崎や三島が好きな教官の授業に出た。出席者が回り持ちでレジュメを作って発表し、それに対して議論するという演習形式だった。私の担当の回では、谷崎の初期の「悪魔的」短編と言われるものを取り上げ、それを批評した。

 ヒロインを女王の位置にまでまつり上げ、自身はそこに跪拝するという典型的なマゾ構図で、その後も谷崎作品で何度も繰り返される。それ自体はいいのだが、その描き方がひたすら官能に酔うという直接的な描き方なので、その性的資質を持つもの以外は、それに入り込めない。つまり客観描写が欠落しているという点を指摘して、議論の中でもとことん否定するという立場を取った。

 議論が終わり担当教官が講評するのだが、谷崎ファンの教官は「たしかに君の言うとおりだが、さすがにそこまで言わなくても・・・」と脱力感想を述べた。そんな風に文学部に遠征して多くの単位を取ることになった。一種の道場破り的な楽しみもあったわけだ。





2024年12月14日土曜日

#京都回想記#【33.再び神戸に下宿する】

京都回想記【33.再び神戸に下宿する】


 1969(昭44)年8月に授業が始まり、紛争の影響で、短縮されて3ヵ月ほどで二年生の前期が終わった。一般に教養課程は二年間のところが多いが、神戸大では一年半で教養課程を終えることになっていた。変則で11月ごろから後期が始まったが、ここから専門課程の経済学部の講義に臨むことになる。教養部で留年を予定していた私も、紛争のどさくさで進級してしまって、心機一転、伝統の六甲台キャンパスに通うことになった。

 張り切って経済学部に入学したものの、教養課程でのあまり意味のないカリキュラムや、大学封鎖で一年近く授業が無かったりして、すっかり意欲を無くしていた。本格的な経済学部の授業では、やはり「経済原論」が面白かった。前半後半に分かれた通年講義であったが、やはり近代経済学の理論を取りまとめたもので、初めて、経済学の一端にふれた気がした。原論の講義だけは熱心にノートを取り、今も残してある。

 再び神戸での生活が始めたが、それは学業の関係だけではない。京都でのO子との関係が、完全に途切れたと思ったからでもあった。京都でそれなりに充実した生活を送っていたが、鬱から完全に脱出した夏ごろからは、O子にもアプローチしていた。彼女の自宅を訪れ、近くの商店街の夜店の道に連れ出すことにも成功した。

 出店の白熱電灯のもとで、二人で歩道を歩きながら話したが、なかなか話がはずまなかった。うつむきながら小声でこたえるだけで、一向に打ち解けてくれる気配も無かった。彼女に、何考えてるのか分からない気がすると問ってみると、「何も考えてないかららよ」とボソっと返事して軽く笑った。

 取り付くしまもないまま、夜道のデートは終わった。その後も彼女宅を訪れて、家の裏手にある小公園に連れ出したが、二人乗りの座式ブランコに乗りながらも、もはやどうにもならない感じだった。この時点で、完全に彼女に拒否されてるのを感じた。そろそろ大学の専門課程にも進んだので、神戸に下宿することを考え出したころだった。

 その頃に、思いがけず彼女からの手紙が届いた。彼女からすれば、私へのお別れのメッセージなのだろう。夜店を歩いた時のことで「あの時の種明かしししましょうか。実はあのとき貴方に甘えたかったんですよ」と書かれてあった。「なのに貴方は自分のことが精いっぱいで、それに気づいてくれなかった」と、何とも思わせぶりなことがしたためられていた。

 頭をガーンと打たれた気分になったが、もはや遅かった。だが、あきらめきれない自分は、もう一度だけ会いたいと思った。待ち合わせの場所と時間を記して、一方的に手紙を送った。場所は、荒神橋のジャズ喫茶「しぁんくれーる」にした。ここなら、ひとりポツンと待っていても怪しまれない場所だから。結局、2時間以上も待ったが、とうとう彼女は現れなかった。







2024年12月13日金曜日

#京都回想記#【32.京都での一年半】

京都回想記【32.京都での一年半】


 U君にうながされて、手作りの詩集を出すことになった。ロウ紙の原紙をきってガリ版(謄写版)で一枚一枚刷る。表紙は色画用紙にゴム版画を押したもので、ホッチキスで止めて完成。詩は幼稚なものだったが、いざ出来上がってしまうと満足できた。知人などを集めて二号ほど作って解散、やがてU君は個人の詩集を作り始めた。私もまねごとで一号だけ作ったものが、今も残っている。

 さらには、この詩集を繁華街に売りに行こうとなった。市バスで河原町四条あたりまで出かけて、3時には閉まる大手銀行の前の歩道で、ムシロを広げて詩集を並べて座る。当時は学生運動のあおりで、街頭でのフォーク演奏が流行りだった。隣にも、若者が座ってギターを演奏する。そちらには若い女の子たちがきゃあきゃあ集まるのだが、インケツな詩集などは見向きもされなかった。それでも、そういうことをしているのが満足だった。

 鬱からの脱出期には、仏教思想にはまって何とか気持ちの安定を図った。すこし出あるけるようになると、スケッチブックなどを抱えて、奈良の西ノ京などを徘徊した。人気少なく春先の長閑な光景には癒された。さらには、東寺の境内で金堂のスケッチなどもした。もとより絵心はまったくなかったが、この時期だけスケッチブックを持ち歩いた経験は、懐かしい。

 そんなこともあって、夏ごろには誘われて、街中の某教会の牧師が無料で教えてくれるという絵画教室にも参加した。絵はまったく上達することはなかったが、高校時代の同級生なども来ていて、楽しく過ごした。この一年半近くの時期は、学業はほうったらかしでぶらぶら好きなことをして過ごした分、自分の視野がかなり広まって、後年に大きな影響をもたらしたと思える。

 この時期の京都では、若者文化が沸騰していた。学生運動崩れの若者や、フォーク、ロック、ジャズなどに集う若者の文化が、関東に対抗するぐらい京都で花開いた。ライブハウスのハシリともいえる拾得、縄文、磔磔や、フォーク系ではほんやら堂など、今でも噂さに上がる店が開店した。

 学生運動の挫折で鉄道自殺した高野悦子の残した日記「二十歳の原点」は、のちに出版されて話題を呼んだが、ちょうどこの時期の日記には、四条河原町周辺に点在する喫茶店六曜社などを渡り歩いたことが記されている。はたまた、都市伝説的な話題となった「河原町のジュリー」も、この周辺を徘徊していたとされる。彼や彼女と、私たちもすれ違っていたかもしれない。

2024年12月12日木曜日

#京都回想記#【31.京都で人生観が反転】

京都回想記【31.京都で人生観が反転】


 全学集会の後、機動隊が導入され8月8日には全学が封鎖解除された。被害の少なかった経済、経営学部では、さっそく8月18日から授業が再開された。占拠が長かった教養部では修復に時間がかかり、9月16日になって全面的に授業再開された。1968年度後期は試験なしで、数枚のレポート提出で単位が取れた。鬱でほとんど出席してなかった私は、語学の単位をあきらめていたが、封鎖中に占拠学生が出席簿を寒さしのぎに燃やしてしまったというw

 神大は教養課程が1年半で、そこ単位不足だと専門課程に上がれず留年となるのだが、そんなわけで何となく進級してしまった。1969年は特例で12月にずれ込んで後期が始まり、その時期から改めて神戸に下宿することになった。今度は東灘区の国鉄(JR)摂津本山の駅前に下宿屋を見つけた。山手に上れば阪急岡本駅があり、そこから二駅で阪急六甲である。大学まで市バスがあるが、歩いても15分程度だ。ただし、毎日が登山となる。

 鬱で前の下宿を引き上げてから、一年半近く京都で過ごしたわけだが、私の大学生活ではこの京都での一年半が、最も充実した期間だったというのは皮肉なものである。鬱から回復して近くの旧友の家をたずねたりしていた。小学校から同級であった元優等生のU君とは、その後接点少なく過ごしてきたが、ここへきてやっといろいろ語り合うようになった。

 彼は二浪中であり、私の方は二度の鬱状態をへてきたため、ともに多少は物事を考えるようになっていた。そして文学や哲学をかじるようになり、詩のまねごとなどにも手を付けだした。私は仏教、とりわけ禅仏教にはまって、鬱から抜け出す道を探っていた。U君は、厳格なサラリーマン家庭で育って、小学生のときも優等生的な生徒としてふるまっていた。しかし二度の受験浪人生活ををへて、それまで押し殺していた自我が目覚めてきていた。

 両人が共通して自分の自我を意識しだしたタイミングで文学に出くわした。それから、むさぶるように読書しだした。私は漱石など教養的な方面から入ったが、U君は自分の感性だけで、いろんな作家を見つけてきた。彼から紹介されて決定的だったのが吉行淳之介だった。吉行は世間的には性風俗ばかり書いている作家とみなされていたが、紹介されて手に取ってみるとまったく違っていて、その繊細な感性に魅了されることになった。

 さらには、哲学思想系にはまったく関心を持っていそうになかったU君なのに、どこからかニーチェを見つけてきて私に紹介した。当然ニーチェの名前は知っていたが、それまでの辞書的な知識とはまったく違うニーチェが現れた。それまで社会調和的な思考に慣れてきた私にとって、自我を最前面に押し出すニーチェの反抗哲学にも感服した。

 それまで、社会に順応するように努力してきた私は、彼らの思考と感性によって、これまでと180度転換した生き方を選択するようになった。U君と二人は、親を含めて世の中に全面的に反抗するような態度をとるようになった。世間と対立することで、これまで見えていなかった自分自身が、明瞭に姿を現してきたのであった。





2024年12月11日水曜日

#京都回想記#【30.そして大学封鎖が始まる】

京都回想記【30.そして大学封鎖が始まる】


 夏休みが終わっても鬱状態から回復せず、ひたすら実家でぐだぐだしているばかりだった。新学期が始まっても登校できず、10月半ばになってやっと学校に出かけられるようになって。久しぶりに体育の授業に出席すると講師から、これから全部出ても出席が足りずに単位は取れないよと言われた。じゃ遊んで帰りますということで、卓球をして帰った。

 そういう感じで適当に講義に出たり出なかったりしているうちに、関東から始まった大学紛争が神戸大学にも波及して、教養部の教室が封鎖された。紛争はまたたく間に全学に広がって、年が明けても一向に進捗しなかった。

 1969年2月には、六甲台講堂で全学集会が行われた。私も出かけたが、ひたすら怒号が行き交うばかりで、何一つ議論にもならなかった。そのころ東大では、2月に機動隊が導入され、激しい攻防のすえ封鎖が解除された。これを契機に、機動隊導入が当たり前となり、全国の大学でも次々に封鎖解除されていった。

 わが大学では根気強く話し合うという路線をとり、一向に打開の目途が立たず、早くも夏休みが近づいていた。当時の学長代行の提案で、7月12日、須磨区の高倉山造成地で全学集会を開くことが提示された。当日、国鉄(現JR)須磨駅前には、集会阻止のために続々と学生たち詰めかけていた。

 私も明確な立場の無いまま、京都から冷やかし半分に出かけた。さてどうするかと思案してるとき、さっ行きましょと両側から活動家の女子学生に腕を組まれ、そのままデモ隊の最前列で造成途中で赤土むき出しの高台まで駆け上がることになった。高台の造成地に着くと、入り口で機動隊が二列に向かい合って並び、一列になってその間を通れと言われた。

 そのまま奥の崖っぷちまで誘導され、ゲバ棒などを持ってる活動家は留められ、われわれ一般学生は、一列に並んで機動隊がサンドウィッチする間を通って解放された。通ってる間には、腹をどつかれたり眼鏡を払い落とされたり、痕跡が残らないような暴力を受けた。

 別のデモ隊列では、崖から落とされる学生も出たようだ。会場内では、学長代行が封鎖解除を決議しましたとひと言だけ宣言し、機動隊導入が決まった。

2024年12月10日火曜日

#京都回想記#【29.大学一年生時代は多難だった】

京都回想記【29.大学一年生時代は多難だった】


 合格祝いの手紙をくれたおかげで、O子と接点が復活しその後何度か会うことになった。なかなか彼女の気持ちをつかめないので、お互いに友達を連れてきてダブルデートでもしようともちかけてみた。彼女も同じ女子大のかわいい友達を連れてきてくれて、須磨離宮公園に行った。大きな滝のような噴水など、モダンに整備されたきれいな公園だった。

 紹介された彼女は、大阪の商家のお嬢さんで、小柄だが口数少なくかわいい人だった。彼女とは何度かデートして、大阪まで行ったこともあったが、その後どちらともなく離れることになった。私には、やはりO子が忘れられないところがあったようだ。そんなことしているうちに、大学は夏休みに入った。

 京都の実家に帰ってぶらぶらしてたが、そのうちO子を誘って映画を観に行くことになった。たしかシドニー・ポアチェの「招かれざる客」だったと思う。四条通の映画館前で待ち合わせして、彼女が先きに来ていたが、私がそこにつくと、すでに若い男が話しかけている。

 いわゆるナンパなんだが、そういう場面を想定していなかったので、どういう態度を取ればいいのか、とまどった。しばらく二人の会話を聞いているという優柔不断な態度だったので、あとから思うとおそらく彼女も不満を感じたはずだった。

 映画ストーリーは、ものわかりの良い白人の両親をもった女性が、弁護士として活躍する優秀なインテリ黒人男性と恋に落ち、その彼を始めてディナーに招いて両親に紹介する場面。両親は気持ちよく出迎えてくれたが、どこかぎこちない。当時の黒人問題が背景にある、白人と黒人間の微妙な心情を描いた映画だった。

 帰り道でも話は弾まず、映画内容も米国の社会背景など深く知らないから、気の利いた会話もできなかった。初めてのまともなデートは、失敗に終わった。そんなことで実家でぶらぶらしているうちに、鬱が再発してしまった。それこそデートどころではない心情に落ち込んでしまったわけだ。結局は神戸の下宿も引き払い、当分、京都の実家で過ごすことになった。新入学して晴れやかな大学生活は、一気に反転してしまった。