2021年6月28日月曜日

#京都世界遺産を深掘り#【15.二条城】

京都世界遺産を深掘り【15.二条城】


 「二条城」は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町(旧山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城で、正式名称は「元離宮二条城」。京都市街の中にある平城で、現存する城は徳川氏によるもので、徳川幕府の京都における拠点とされた。

 二条城では、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所となった。このことは、天皇の膝元での儀礼が二条城の第一義的な役割だったことを物語るが、もちろん幕府による朝廷の監視も視野に入れられていた。

 現存の二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した城であり、戦国時代の戦闘目的の山城などとは根本的に目的を異としている。近代には宮内省の所管となり「二条離宮」とされたため、現在の「元離宮二条城」とされることになった。

 弱体化した足利将軍が織田信長の後ろ盾で城をつくったり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)「二条第」という城を築いたりしたが、現在の二条城の場所と同じとは言い切れない。信長、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として築城を始めた。慶長8(1603)年に落成すると、家康は征夷大将軍の宣旨を受け、二条城に入城し「拝賀の礼」を行った。

 そして慶長16(1611)年、二条城の御殿(二の丸御殿)は、家康が、大坂城の豊臣秀頼を呼びつけて歴史的な会見(二条城会見)の場になった。しかし慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城の2代将軍秀忠とともに大坂へ駒を進めた。寛永3(1626)年、3代将軍徳川家光の時に大改築され、後水尾天皇の行幸が行われた。

 しかし、寛永11(1634)年、家光が30万の兵を引き連れ上洛、二条城に入城したのを最後に、その後二条城は、幕末までの230年間歴史の表舞台に登場することはなくなった。その間に自然災害などで二条城は老朽化破損消失し、落雷により天守も焼失した。幕末になって、14代将軍徳川家茂が朝廷の要請で上洛することになり、荒れ果てていた二条城の改修が行われたが、ついに天守閣は再建されなかった。

 慶応2(1866)年、一橋慶喜は二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。幕末から明治維新にいたる間、慶喜は江戸城に入らず、二条城を拠点に指揮をする。そして慶応3(1867)年10月、二条城二の丸大広間に各藩重臣を集め、大政奉還が公的に表明された。

 明治で東京奠都されると、二の丸御殿が京都府庁舎となるなどしたが、明治17(1884)年、宮内省の所管となり「二条離宮」とされた。大正天皇即位の儀式では饗宴場として二条離宮が使用され、その後、京都市に下賜され、昭和15(1940)年 「恩賜元離宮二条城」として一般公開された。

 家康が京での滞在場所として二条城を築城させたとき、家臣から将軍滞在の城として防御能力に疑問が呈されたが、家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたということからも、二条城の位置づけが想像できる。

 二条城の天守閣が再建されなかったことから、京都の街には天守を構えた城らしい城がない。豊臣秀吉が本格的な伏見城を築いたが、戦乱で焼失し、その後家康に修復されたりしたが、将軍が上洛時の滞在地としては、街中の二条城の方が便利ということで、伏見城は廃城となる。昭和39(1964)年には、近鉄グループによる桃山城キャッスルランドという遊園地が開園され、そのシンボルとして天守閣が作られたが、これはあくまでコンクリート造りのレプリカでしかなかった。

2021年6月26日土曜日

#京都世界遺産を深掘り#【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】

京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】


 通称「西本願寺」は、京都市下京区七条上ルの堀川通りに面した地にあり、浄土真宗本願寺派の本山であり、山号は龍谷山、正式名称は「龍谷山 本願寺」である。真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。

 弘長2(1262)年、浄土真宗開祖「親鸞」が入滅する、享年90。文永7(1272)年、親鸞の末娘 覚信尼は、親鸞の廟堂として京都東山に「大谷廟堂」を建立する。そして、元亨元(1321)年、第3世 覚如が大谷廟堂を寺格化し「本願寺」と号すると、親鸞を開祖と定め、以後「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになった。

 覚如は、親鸞の門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図するが、強大な経済力・軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院によって弾圧を受けて、低迷を余儀なくされた。また、東国などでは親鸞の門弟たちによる教団が展開され、浄土真宗は決して本願寺に一本化されたわけではなかった。

 長禄元(1457)年、第8世「蓮如」が本願寺を継承したころには、本願寺は衰亡の極みで青蓮院の一末寺としてかろうじて継承されていた。寛正6(1465)年、本願寺は延暦寺衆徒によって破却され、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。

 中興の祖とされる蓮如の布教により、門徒(真宗教徒)は東国に拡がりをみせ、北陸では加賀国守護富樫氏の内紛に関わり、やがて百年にわたる「加賀国一向一揆」にまで展開する。蓮如は一揆の鎮静をはかるが収められず吉崎を退去する。明応6(1497)年、蓮如は大坂石山に「大坂御坊」(大坂本願寺)を建立し隠棲、明応8(1499)年、山科本願寺で入滅する。

 戦国の100年間に、本願寺は日本有数の大教団として、また強力な社会的勢力としての地位を得た。これは、教団の自衛としての意味もあるが、力を付けた民衆の解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力ともなった。それは一方で、戦国大名など世俗権力との軋轢もまねき、その最大のものが、約10年にわたる「石山合戦」である。

 天下統一をすすめ京都に入った信長が、元亀元(1570)年、浄土真宗門徒の本拠地、大坂石山の「大坂本願寺(石山御坊)」からの退去を命じたが、石山本願寺勢力は信長に徹底抗戦する。10年にわたる交戦のあと講和が成立するが、徹底抗戦勢力が籠城したため、「大坂(石山)本願寺」には火が放たれ灰燼と化した。

 まもなく「本能寺の変」が起こり、信長が自害すると、あとを継いだ豊臣秀吉により石山本願寺跡地を含む一帯に「大坂城」が築かれた。本願寺は、秀吉の寺地寄進をうけて大坂の天満(てんま)に移るが、さらに天正19(1591)年、豊臣秀吉から京都に寺地の寄進を受け、現在地に移転した。

 「石山合戦」で和議を受け入れた第11世門跡 顕如は、徹底抗戦を唱える長男 教如との間にしこりが残り、教団の内部も穏健派と強硬派に分裂し、これが東西本願寺分立の伏線となった。顕如入滅にともない、教如が本願寺を継承するが、穏健派は三男の准如に継職させるよう秀吉に願い出て、弟の准如が第12世本願寺宗主となる。

 関ヶ原の戦い後、天下人となった家康に接近した教如は、家康から「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の寺領を寄進され、教如はここを本拠とする。かくして本願寺教団は、「准如を12世宗主とする本願寺教団(真宗本願寺派/西本願寺)」と、「教如を12代宗主とする本願寺教団(真宗大谷派/東本願寺)とに分裂することになる。正式には、慶長8(1603)年、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、「本願寺(東本願寺)」が開かれた。

 西本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているが、観光寺院ではなく信仰を旨とする寺であるため拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。

 東西の本願寺は、五条通りから七条通りの京都の中心地に広大な土地を所有する。その所有地に多くの民家が建ち、借家も多く、それらの借家には高齢者夫婦などが住まっている。古くからの借家は家賃が安いので、高齢者は移転が難しく、下京区の高齢化が進んでいるという。

 この地区はJR京都駅の北面にあたり京都の玄関口であるが、商業集積は比較的遅れており、京都の商業中心地は四条河原町周辺に奪われている。これは、五条通りから京都駅前の塩小路通りに挟まれた広大な中心地域が、商業に積極的でなかった東西本願寺と旧国鉄の所有地であったためと言われている。

#京都世界遺産を深掘り#【13.大雲山 龍安寺】

京都世界遺産を深掘り【13.大雲山 龍安寺】


 「龍安寺(りょうあんじ)」は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の境外塔頭寺院で、本尊は釈迦如来、山号は大雲山、その枯山水の石庭で知られる。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承。もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、円融寺の境内地であったが、その後衰退して、藤原北家の流れを汲む徳大寺家の山荘となっていたものを、細川勝元が譲り受け、宝徳(1450)2年敷地内に龍安寺を建立し、初代住職として妙心寺住持の義天玄承(玄詔)を迎え開基とした。

 応仁の乱では、細川勝元は東軍の総大将だったため、山名宗全の西軍の攻撃を受け焼失した。長享2(1488)年勝元の子 細川政元が再建に着手、4世住持 特芳禅傑が中興開山とされる。その後、織田信長、豊臣秀吉らに寺領が寄進された。龍安寺の鏡容池はオシドリの名所とされており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。

 江戸寛政年間に、火災で主要伽藍が焼失したため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。その方丈の南面に有名な枯山水の庭があり、方丈から庭を眺めて瞑想にふけるひと時が、まさしく禅のこころを体現するとも言われる。そしてさらに南に、幾つかの塔頭をはさみ鏡容池が広がり、その周りを巡る回遊式庭園の鑑賞コースとなっていて、四季それぞれの景観が楽しめる。

 方丈庭園すなわち「龍安寺の石庭」は、白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園で、大小の15の石を配置するだけという極めてシンプルな構成で、いかにも禅における「無」の象徴とされる。この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称で呼ばれることもある。寺伝では、室町末期の優れた禅僧によって作庭されたとさられるが、作庭者は諸説あって定かになっていない。

 寺伝によると、この石庭には幾つもの謎があると言われる。なかでも「虎の子渡し」の謎は、まさにパズルのようなナゾナゾだ。虎には3匹の子供がいて、そのうち1匹は獰猛とされて、子虎だけにすると獰猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時にどのようにするか、というナゾナゾである。答えはあえて書かないので、自分で考えてもらいたい。

 龍安寺の前には「きぬかけの路」が通っており、広めの駐車場もあるので交通の便はよい。公共交通では、京福電鉄北野線「龍安寺駅」下車で徒歩7分と、そこそこ距離がある。市内各ターミナルからは市バスが出ており、「きぬかけの路」の「龍安寺前」下車すると、すぐ目の前に龍安寺がある。一つ手前の「立命館大学前」停まりもあるが、その場合500mほど歩くことになる。

 なお「Google ストリートビュー」では、鏡容池回遊や方丈から石庭まで、疑似散策することができる。


2021年6月22日火曜日

#京都世界遺産を深掘り#【12.鹿苑寺(金閣寺)】

京都世界遺産を深掘り【12.鹿苑寺(金閣寺)】


 「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、京都市北区の衣笠山麓にあり、臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭とされる。金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿が金閣(きんかく)と称され、寺院全体は金閣寺(きんかくじ)と呼ぶ方が一般に知られている。

 開基(創設者)は室町幕府3代将軍である足利義満で、義満の別荘であった北山山荘を、その死後に寺としたものである。舎利殿金閣は、唯一残されていた室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25(1950)年に放火により焼失し、昭和30(1955)年に再建された。そのため舎利殿は国宝指定からは外されており、金閣寺庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されている。

 金閣の再建は、昭和27(1952)年に着手され昭和30(1955)年に落慶したが、明治39(1906)年の解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造や意匠を踏襲している。なお、頂上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存している。

 鹿苑寺自体は、応仁の乱で西軍の陣となり建築物の多くが焼失するなど、荒廃していたが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2(1649)年に大修理された。明治の廃仏毀釈により、寺領の多くを失い経済的基盤を失ったが、明治27(1894)年から拝観料を徴収して、寺収入を確保するなど、観光寺院としての先鞭をつけた。

 金閣再建後も、金箔が剥落して劣化が目立ったため、昭和61(1986)年から「昭和大修復」が行われ、この時に貼り替えられた金箔には通常の5倍の厚さのものが使われた。江戸時代の金閣や消失再建後の金閣も、金箔の落剝した姿が一般的だったので、現在の燦然と輝く金閣を拝観できるのは、むしろ幸いとすべきかもしれない。

 拝観のポイントは金閣そのものだけではなく、なだらかな衣笠山を借景とし、鏡湖池が金閣を水面に映すという回遊式庭園とされている、国の特別史跡特別名勝「金閣寺庭園(鹿苑寺庭園)」全体を楽しむべきであろう。鏡湖池には葦原島・鶴島・亀島などの島々のほか、畠山石・赤松石・細川石などの奇岩名石が数多く配されている。

 火災から再建された翌昭和31(1956)年、三島由紀夫は「金閣寺」を発表する。放火犯で吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と、荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。綿密な取材に基づいた観念小説であり、「仮面の告白」の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であったと言える。

 一方、直木賞作家として遅いデビューとなった水上勉は、三島より数歳年上とはいえ同世代に属するが、戦中に十代すでに文壇デビューしていた三島とは、まったく異なる文学履歴をもっている。水上は昭和42(1967)年に「五番町夕霧楼」で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした小説を書く。

 吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局、放火するより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」では、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子をヒロインとして、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。

 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた「雁の寺」で直木賞を受賞し世に認められた。

 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭地方のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも「金閣炎上」というドキュメンタリー作で、再度、放火犯林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。

 文学に関心のあるむきは、単なる金閣寺観光だけでなく、この両小説を読み比べてみるのも、一趣ではないだろうか。



2021年6月21日月曜日

#京都世界遺産を深掘り#【11.臨済宗 天龍寺】

京都世界遺産を深掘り【11.臨済宗 天龍寺】


 嵯峨野「天龍寺(てんりゅうじ)」は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派大本山であり、山号は霊亀山、寺号は霊亀山天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来で、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされ、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

 天龍寺の地には平安時代から、嵯峨天皇にちなむ離宮などがあり、天龍寺西方の小倉山の別称「亀山殿」と称された。その後征夷大将軍となった足利尊氏は、南北朝で対立した後醍醐天皇の菩提を弔うため、南朝大覚寺統由縁の亀山殿を天龍寺とした。いわば敵であった後醍醐天皇を弔う寺院の建立を尊氏に勧めたのは、武家からも尊崇を受ける禅僧 夢窓疎石であった。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられ、落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4(1345)年に行われた。

 天龍寺伽藍は、その後応仁の乱などで何度も大火に見舞われ、創建当時の建物はことごとく失われ、京都五山の第一位として栄えた広大な寺域も縮小した。その後、時の権力者豊臣秀吉や徳川家康により寺領の寄進をうけ復興した。しばらくは安泰であったが、幕末元治元(1864)年、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、幕府軍や薩摩藩兵の攻撃により伽藍が焼失したため、現存伽藍の大部分は明治時代以降のものであるが、方丈の西側にある夢窓疎石作という庭園にわずかに当初の面影がうかがえ、方丈の北側には亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

 天龍寺は明治の活動写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。映画のメッカ太秦に近く、その武家屋敷のようなたたずまいや、嵐山や渡月橋に近く変化の多い風景から、何度となく映画ロケに使われたが、現在はロケを断っているという。

 天龍寺を身近な存在にしたのは、戦後すぐに第8代臨済宗天龍寺派管長に就任に就任した関牧翁に負うところも多い。関牧翁は、分かりやすい言葉で「禅の心」を広く一般の人に伝え、幅広い見識と自由奔放でさばけた言動で、政財界を始め多くの人たちと交流を持つとともに、天龍寺規則・宗制の改正を断行し、伝統を破り天龍寺の公開に踏み切るなど開かれた禅宗をめざした。

 関牧翁は厳格な性格で仏道に精進していたが、戦後、管長になる頃に未亡人と恋愛に陥って物議を醸した。以後、人間味あふれる俗世に身近な禅僧として、酒食も俗人と同様にし、未亡人を入籍した。当時盛んとなったテレビにも、NHKを始めたびたび出演し、身近な禅の心を説いた。

 薬師寺館長高田好胤らとともに、当時、深夜お色気バラエティとして一世を風靡した11PMなどにも出演し、生臭坊主という批評にも平気だった。元慶応ボーイでありイケメンという風貌もくわわって、祇園街でモテモテであったという風評もきいたが、真偽は不明。


2021年6月17日木曜日

#京都世界遺産を深掘り#【10.西芳寺(苔寺)】

京都世界遺産を深掘り【10.西芳寺(苔寺)】


 「西芳寺(さいほうじ)」は、京都市西京区松尾にある臨済宗の仏教寺院で、天龍寺の境外塔頭だったが、現在は離脱して単立寺院となっている。「苔寺(こけでら)」の通称で知られるように、千種類をこえる苔に覆われた庭園が有名である。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝えられ、中興開山は夢窓疎石である。

 伝承によれば、飛鳥時代に聖徳太子の別荘があったとされるが、奈良時代に聖武天皇の意を受けて行基が寺へ改めたとされる。当初は法相宗寺院だったが、鎌倉時代には法然によって浄土宗に改宗され、その後建武年間には荒廃した。室町時代の暦応2(1339)年に再興され、夢窓疎石を招いて臨済宗に改宗された。元の寺名「西方寺」だったが、夢窓疎石によって「西芳寺」と改められた。

 「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する。室町3代将軍の足利義満が西芳寺を訪れ、西芳寺を模して鹿苑寺(金閣寺)を創設したという。西芳寺は応仁の乱で焼失したが、本願寺の蓮如により再興され、8代将軍の足利義政は指東庵を再建すると、西芳寺と鹿苑寺を模して慈照寺(銀閣寺)創建したという。

 その後も戦乱や洪水により荒廃したが、そのつど再建され、江戸時代末期になってから、現在のような苔で覆われた庭園なったようで、すぐそばに川が流れる谷間という地理的要因が大きいと言われる。夢窓疎石の作庭とされる名園は当初枯山水の庭だったが、その時の様子が残されているのは一部の礎石と石組みのみで、よく知られる苔の庭は、低湿地という自然環境のもと、木立の中にある黄金池と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園として残されている。

 庭園内には湘南亭・少庵堂・潭北亭の3つの茶室があるが、そのうち最古の湘南亭は桃山時代に創建され、重要文化財に指定されている。湘南亭は茶室としては珍しくL字型に母屋が造られていて、北側に張り出した月見台が設けられている。この湘南亭は、かの千利休が豊臣秀吉に命じられて切腹する前に一時期訪れたり、幕末に活躍した公家岩倉具視が、幕府の追及を受けたときに、当時の西芳寺住職だった従兄弟を頼って身を隠したと言う。

 このほか境内には、「鞍馬天狗」の著者として著名な大佛次郎の文学碑が設置され、その小説「帰郷」の中の一節が、川端康成の揮毫により刻まれている。また高浜虚子の句碑には「禅寺の苔を啄む小鳥かな」という虚子の句が刻まれている。また近年には、禅宗に深く心酔したAppleの創業者スティーブ・ジョブズが、家族とともに西芳寺を何度も訪れたという話しもある。

 なお現在の西芳寺は、一般の観光拝観を中止し、読経と写経という宗教行事に参加することを条件に、往復はがきによる事前申し込み制となっている。寺の駐車場もなく近隣の民間駐車場を利用するか、公共交通(阪急電車、京都バスなど)を利用することになる。参観には若干の手間がかかるが、苔寺の近くには、一休さん生誕の地で「竹の寺」と呼ばれる「地蔵院」や、鈴虫の音と和尚の説法で有名な「鈴虫寺」こと「華厳寺」が、徒歩数分の距離にある。

2021年6月14日月曜日

#京都世界遺産を深掘り#【09.栂尾山 高山寺】

京都世界遺産を深掘り【09.栂尾山 高山寺】


 「高山寺(こうざんじ)」は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)にある寺院で、山号を栂尾山と称し真言宗系の単立である。創建は奈良時代とされるが、実質的な開基は鎌倉時代の明恵であり、「鳥獣人物戯画」をはじめ、多くの文化財を伝える寺院として知られる。栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、かつてあった神護寺の子院を明恵が再興したといわれている。

 高山寺の中興の祖 明恵房高弁(1173~1232)は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を激しく批判し、後鳥羽上皇から栂尾の地と華厳経にある句「日出先照高山之寺」の額を賜わったことをもって高山寺の創立と見なされている。その後真言宗御室派に属していたが、1966年真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。

 紅葉の名所として知られる高雄山神護寺から、さらに奥に入った栂尾に位置し、清滝川に沿って周山街道(国道162)をさらに北上すると、北山杉で有名な旧中川町を経て周山(京北町)に至る。高山寺は、中世以降たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

 もともと神護寺本寺から離れた、厳しい隠棲修行の場所だった高山寺は、山奥にひっそりとたたずみ、境内全体が自然に囲まれた庭園が美しい。寺内には多くの国宝や重要文化財が保管されているが、なかでも一般に有名なのは「鳥獣人物戯画」である。

 鳥獣戯画は、ウサギ・カエル・サルなどの動物に擬して、当時の世相や人物を戯画的に描いたもので、「日本最古の漫画」とも称されている。作者には戯画の名手として鳥羽僧正覚猷(かくゆう)が擬されているが、確証はない。原本は東京国立博物館・京都国立博物館に寄託保管されており、現在高山寺には模写されたものが展示されている。

 京都の名刹名勝を歌った「女ひとり」(デュークエイセス)では、大原三千院や嵐山大覚寺とともに、二番では「京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた女がひとり」と歌われている。金閣寺・清水寺・龍安寺というビッグスリーをさしおいて、高山寺などしっぽりと静謐をたたえた場所が選ばれたのは、「恋に疲れた女」に似あうという作詞者のセレクトがあったのだろう。

2021年6月12日土曜日

#京都世界遺産を深掘り#【08.宇治上神社】

京都世界遺産を深掘り【08.宇治上神社】


 「宇治上神社(うじがみじんじゃ)」は、宇治川東岸の朝日山の山裾にある神社で、祭神は「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)命」で、日本書紀によると応神天皇の子で仁徳天皇の異母弟にあたるという。宇治上神社の近くには宇治神社があり、二社一体の存在であったとされるが、明治になってから両社は分離された。近年の年代調査によると、本殿は現存最古の神社建築で、対岸に同時期創建されたた平等院の鎮守社となった。

 宇治橋から京都方面に走る府道から、山手に折れて坂道を進むと「源氏物語ミュージアム」があり、そこから山裾を這うように「さわらびの道」と名付けられた散策道が延びている。その先に「宇治上神社」があり、さらに「宇治神社」がある。宇治神社の境内を抜けて宇治川右岸に行き当たると、朝霧橋という散策専用の朱塗り橋が架けられており、それを渡って対岸の平等院に出れば、ほぼ王朝気分が味わえる。 https://www.ujimiyage.com/user_data/kanko00_04

 宇治橋周辺一帯では、毎年10月末ごろ「宇治十帖スタンプラリー」が開催される。「源氏物語」の「宇治十帖」では、光源氏亡き後の世界が、舞台を宇治の地に移して展開される。物語の世界とは言え、周辺にはいつしか宇治十帖の物語を偲ぶ古跡が設けられ、これらの旧跡をラリーポイントとして、楽しみながら宇治十帖を偲ぶというイベントである。宇治上神社と宇治神社の地点には、「早蕨」のポイントが設けられている。

 「宇治(うじ)」という地名の由来には諸説ある。「菟道稚郎子命」がここに宮をつくって住まったことによるというのが一般的な説であるが、山や巨椋池に囲まれた土地ゆえに「うち/そと」の「うち(うぢ)」だという説、さらには、文字通り莵(うさぎ)が飛び跳ねていた「ウサギ道(菟道)」からだろうとか、これという定説はないようだ。

 宇治という土地は、琵琶湖から流れ出た瀬田川が、山間から平地に出て砂が堆積した扇状地なので、水捌けが良すぎて畑作や稲作には向かず、根を張る灌木である茶を植えたのだろう。琵琶湖のたまり水が源流なので、藻が繁殖していて緑色をしているが、宇治橋あたりではまだ流れが速く、波立つので白っぽくなり、あざやかな鴬色、つまり宇治抹茶のイメージに近い色の宇治川の水となる。

 平地に出た宇治川は、観月橋方面を頂点にと、北に向けて大きくうねる。秀吉が太閤堤と呼ばれる護岸工事をしたように、このうねりは洪水を起こしやすい。流れ出た水は、うねりの内側、すなわち南の平地にたまる。これがかつて存在した巨椋池であり、氾濫原として天然の貯水ダムの役割をしていた。したがって広い割には水深はせいぜいが2m程度で、昭和の初め以来の干拓で、ほぼ農地に転換された。一方で上流には天ヶ瀬ダムが築かれたので、巨椋池の役割は消失したのである。

 宇治上神社・宇治神社はその歴史起源は古いが、対岸の平等院ほど全国的に著名ではない。明治政府により「村社」に格付けされたためもあり、ローカルな神社のイメージとなっているが、宇治市内では平等院とともに、二社だけが世界遺産「古都京都の文化財」に登録されている。