京都世界遺産を深掘り【15.二条城】
「二条城」は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町(旧山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城で、正式名称は「元離宮二条城」。京都市街の中にある平城で、現存する城は徳川氏によるもので、徳川幕府の京都における拠点とされた。
二条城では、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所となった。このことは、天皇の膝元での儀礼が二条城の第一義的な役割だったことを物語るが、もちろん幕府による朝廷の監視も視野に入れられていた。
現存の二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した城であり、戦国時代の戦闘目的の山城などとは根本的に目的を異としている。近代には宮内省の所管となり「二条離宮」とされたため、現在の「元離宮二条城」とされることになった。
弱体化した足利将軍が織田信長の後ろ盾で城をつくったり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)「二条第」という城を築いたりしたが、現在の二条城の場所と同じとは言い切れない。信長、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として築城を始めた。慶長8(1603)年に落成すると、家康は征夷大将軍の宣旨を受け、二条城に入城し「拝賀の礼」を行った。
そして慶長16(1611)年、二条城の御殿(二の丸御殿)は、家康が、大坂城の豊臣秀頼を呼びつけて歴史的な会見(二条城会見)の場になった。しかし慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城の2代将軍秀忠とともに大坂へ駒を進めた。寛永3(1626)年、3代将軍徳川家光の時に大改築され、後水尾天皇の行幸が行われた。
しかし、寛永11(1634)年、家光が30万の兵を引き連れ上洛、二条城に入城したのを最後に、その後二条城は、幕末までの230年間歴史の表舞台に登場することはなくなった。その間に自然災害などで二条城は老朽化破損消失し、落雷により天守も焼失した。幕末になって、14代将軍徳川家茂が朝廷の要請で上洛することになり、荒れ果てていた二条城の改修が行われたが、ついに天守閣は再建されなかった。
慶応2(1866)年、一橋慶喜は二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。幕末から明治維新にいたる間、慶喜は江戸城に入らず、二条城を拠点に指揮をする。そして慶応3(1867)年10月、二条城二の丸大広間に各藩重臣を集め、大政奉還が公的に表明された。
明治で東京奠都されると、二の丸御殿が京都府庁舎となるなどしたが、明治17(1884)年、宮内省の所管となり「二条離宮」とされた。大正天皇即位の儀式では饗宴場として二条離宮が使用され、その後、京都市に下賜され、昭和15(1940)年 「恩賜元離宮二条城」として一般公開された。
家康が京での滞在場所として二条城を築城させたとき、家臣から将軍滞在の城として防御能力に疑問が呈されたが、家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたということからも、二条城の位置づけが想像できる。
二条城の天守閣が再建されなかったことから、京都の街には天守を構えた城らしい城がない。豊臣秀吉が本格的な伏見城を築いたが、戦乱で焼失し、その後家康に修復されたりしたが、将軍が上洛時の滞在地としては、街中の二条城の方が便利ということで、伏見城は廃城となる。昭和39(1964)年には、近鉄グループによる桃山城キャッスルランドという遊園地が開園され、そのシンボルとして天守閣が作られたが、これはあくまでコンクリート造りのレプリカでしかなかった。