2021年6月2日水曜日

#京都世界遺産を深掘り#【01.上賀茂神社・下鴨神社】

京都世界遺産を深掘り【01.上賀茂神社・下鴨神社】


【上賀茂神社】

 「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」、通称「上賀茂神社」は、京都最古の歴史を有する一社であり、古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、「賀茂御祖神社(下鴨神社)」とともに「賀茂神社(賀茂社)」と総称される。

 賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後も皇城の鎮護社として一層の崇敬を受け、京都という都市の形成にも深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である「賀茂祭(葵祭)」は、現在も5月15日に行われ、平安時代に「祭り」と言えば賀茂祭のことを指さし、源氏物語など古典文学にも登場する。

 葵祭は平安時代から何度かの中断をへて、現在まで続けられている。5月の初めから幾つかの儀式が行われるが、やはりもっとも華やかなのが15日の路頭の儀で、京都御所を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを、王朝風俗の衣装をまとった行列が進むのを、多くの人々が見ようと集まる。

 葵の花を飾った平安後期の装束での行列が「葵祭」と呼ばれる由縁で、行列の主役は華やかな「斎王代」だとおもわれがちだが、祭りとしての主役は「勅使代」であり、源氏物語中では、光源氏が勅使を勤める場面が描かれている。

 上下二つの賀茂社は伊勢神宮に次ぐ社格とされ、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる「勅祭社」とされている。これにのっとって、帝の使いとして勅使が賀茂社に使わされ、騎馬の文官・武官を中心とする本列(勅使列)の中心になるのが「勅使代」である。

 一方、女人列の中心で、腰輿(およよ)に乗りしずしずと進むのが「斎王代」である。かつては、伊勢神宮の斎宮にならって斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。その歴史にもとづいて、昭和31(1956)年、戦後に復活された女人列とともに「斎王代」が創設された。意外にも、戦後に登場した祭りのヒロインだったのである。

 上賀茂神社の真北の方角に高さ300mほどの「神山(こうやま)」があり、かつては賀茂山(かもやま)」と呼ばれた。上賀茂神社の祭神「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」が降臨した山とされ、頂上に「降臨石」と名付けられた岩塊が残されている。そして上賀茂神社の境内には、「立砂」という神山を擬して砂で作った円錐状の2体のモニュメントがある。

 神山の山麓から上賀茂神社境内の間には、戦後最初に「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース」が、神社関係者の反対を押して、軍人のレクリエーション用にGHQの指示によりつくられたが、今では京都で老舗のゴルフコースとなっている。また、昭和40(1965)年に神山麓に京都産業大学が設置され、上賀茂神社周辺は学生の街にもなっている。


【下鴨神社】

 「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」は、通称「下鴨神社」と呼ばれ、京都市左京区の賀茂川と高野川が合流する三角地帯にあり、神社の境内には「糺(ただす)の森」と呼ばれる鬱蒼とした原生林が広がる。現在でも都心部に大きな場所を占める森だが、かつてはその十数倍の広さがあり、糺の森に囲まれて下鴨神社があったとも言える。

 源氏物語では、光源氏が都を離れて須磨へ下っていくときに、都でさまざまに言われる自分に関する噂を、そのなりゆきは糺の神に委ねようと、下鴨神社を拝して詠んだ歌が挿入されている。

  憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ 名をば糺の神にまかせて 光源氏

 賀茂川と高野川の合流点から、糺の森を突き抜けて北に一直線に伸びた参道があり、その正面に神殿という直線的な配置になっていて、境内には御手洗川(みたらいがわ)、みたらし池があって、御手洗社の水は葵祭の斎王代の清めの聖水となる。

 賀茂御祖神社(下鴨神社)は、上賀茂神社とともに朝廷の崇敬を受け、最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。弘仁元(810)年以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。その名残として、現在の葵祭でも「斎王代」がヒロインの役割を担っている。

 表参道は糺の森の中を北に真っすぐ伸びているが、入ってすぐ左手にある下鴨神社摂社の河合神社は、祭神に神武天皇の母 玉依姫命を祀り、女性守護の社として近年人気を集めている。また、各地を転々とした晩年の鴨長明が栖(すみか)とした方丈がある。河合神社の禰宜の息子として育った鴨長明には縁が深く、かの「方丈記」もここで書かれたと想像される。移動に便利な組立式で、広さが一丈(約3m)四方なので「方丈」の名があるが、近年に再現されたものが展示されている。

 また、糺の森に隣接した場所には、かつて松竹京都撮影所(下加茂撮影所)があり、多くの時代劇を製作し、糺の森は絶好の時代劇ロケ地として利用された。林長二郎(長谷川一夫)の「雪之丞変化」「残菊物語」など「下加茂カラー」と呼ばれる時代劇で一世を風靡したが、戦後の昭和25(1950)年、撮影所内のフィルム原版倉庫の火災で致命的な損害を受け、太秦に移転した。

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