京都世界遺産を深掘り【02.教王護国寺(東寺)】
「東寺」は「教王護国寺」とも呼ばれ、平安建都の際に都の南玄関、羅城門の東に作られた。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立された後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになった。
8世紀末に平安京が遷都されたとき、都の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、また東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
東西寺の造立は定かではないが、嵯峨天皇の時の弘仁14(823)年、東寺は「空海」、西寺は「守敏」に下賜されたとされるが、これは伝説性が強いとされる。東寺の方は世界遺産にも指定されているが、一方の西寺は同じ規模の寺院であったが、石碑と金堂の礎石が残されているだけとなっている。
空海と守敏とはライバルとして対立していたが、弘仁15(824)年の旱魃の時、帝の命で神泉苑で雨乞い祈祷で法力を競うことになった。守敏は三日三晩不休普及不眠で護摩を炊きつづけ熱中症で倒れてしまい、その後、頃合いをみて空海が祈祷を始めると、またたく間に天から竜が舞い降り、三日三晩雨が降り続けた。
その後、敗れた守敏の西寺は寂れ、空海の名声はますます高まったという。しかし、当時の科学にも明るい空海は、西に雲が起れば雨が降るのを知っていて、それを見て祈祷を始めたという説もあるが、そもそもこのような祈祷合戦があったこと自体が怪しい。
西寺の衰退原因は、立地である右京の水捌けが悪く、早くから湿地帯となり寂れたため、西寺も寂れるに任せられたのが理由だろうとされている。一方の弘法大師空海の名声はますます高く、死後においても「弘法大師信仰」で「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになった。
中世以後の東寺は何度か火災に遭い、文明18(1486)年の火災では主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。現在の東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のまま残されている。
ほとんどの建物が鎌倉時代以後の再建になるが、ほぼすべてが国宝や重要文化財に指定されており、なかでも際立って目立つのは高さ55メートルと木造塔としては日本一の高さを誇る五重塔で、寛永年間に徳川家光に再建奉納されたものである。夜になると、塔はライトアップされて、黄金色に輝いて見える。
北山通り近くの北区で育ったが、親たちに「このあたりは東寺の塔のてっぺんと同じ高さだ」と言われて、京都で「上ル下ル」という言い方に納得したものだった。その後、京都タワーを建てるという話しが出て、東寺の塔があるのに、なぜコンクリの塔を建てる必要があるのだという反対論があったが、いまでは京にしっくりと馴染んでいる。新幹線などで京都に帰って来ると、京都タワーと東寺の塔が並んでそびえるのを眺めてほっとする光景となっている。
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