2021年6月10日木曜日

#京都世界遺産を深掘り#【06.御室 仁和寺】

京都世界遺産を深掘り【06.御室 仁和寺】


 「仁和寺(にんなじ)」は、京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山で、光孝天皇の勅願に始まり、仁和4(888)年に開基宇多天皇として落成した。仏道に深く帰依した宇多天皇は、仁和寺で出家し宇多法皇となり、寺域に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建てて住まったため、仁和寺は「御室御所」とも呼ばれるようになった。

 朱塗りの中門をくぐると、御所の紫宸殿を移築した金堂のほか、五重塔や観音堂が配置され、皇室ゆかりの門跡寺院として格式が高く、「徒然草」「方丈記」など古典にも数多く登場する。境内の背丈の低い桜は「御室桜」として有名であり、遅咲きの桜として、そめいよしのが散りつくした後の4月半ばまで、多くの参拝者を楽しませる。

 応仁の乱で伽藍は全焼したが、本尊の阿弥陀三尊像は運び出されて焼失を免れた。その後関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得、江戸幕府将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得た。寛永11(1634)年、仁和寺第21世覚深法親王が将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、幕府の支援を得て伽藍が整備された。また、寛永年間の御所(京都御所)の建て替えに伴い、旧紫宸殿・清涼殿・常御殿などが仁和寺境内に移築された。

 慶応3(1867)年、第30世純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となって以降、皇室出身者が当寺の門跡となることはなく、宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた。しかし、太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった昭和20(1945)年1月、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画を打診したが、結局、昭和天皇の出家はなかった。

 仁和寺の南には嵐電北野線(京福電鉄)が走っており、寺院を模した「御室仁和寺駅」がある。また、仁王門のすぐ前を走る道路は「きぬかけの路」と呼ばれ、衣笠山の麓に沿って、北東方向に金閣寺に至り、途中には龍安寺・妙心寺・等持院など有名寺院が散在する。徒歩では少し距離があるが、気候の良い時期、レンタル自転車などで散策するには最適のコースである。

 この「きぬかけの路」は、金閣寺から連なる「衣笠(きぬがさ)山」の麓に沿って走っているが、この山はかつて「衣掛(きぬかけ)山」とも呼ばれたことにちなんで、近年になって名付けられた。御室御所の宇多法皇が、夏の盛りに「雪のかかった衣笠山を見たい」とおおせられ、山の松の枝に綿衣を掛けて雪に見立てたという逸話から、「きぬかけ」ないし「きぬがさね」という呼び名がはじまったという。

 ちなみに京都には「衣笠丼」という独自の丼ものがある。京揚げに九条葱を載せ玉子で閉じたドンブリで、ネギが松の緑、アゲが幹の茶色、そして玉子のシロミが綿衣の雪、というわけだが、大阪人に言わせると「ただのケツネ丼」やないかと言うことになるようだ。

 吉田兼好の「徒然草」には、「仁和寺の法師」のドジ話がでてくる。祝いの席で、酔っぱらった僧が、そばの足鼎(あしがなえ)を被って余興に踊ったが、いざ抜こうとするとこれが抜けなくなって大騒ぎ。最後には、耳や鼻が引きちぎれても命には代えられないと、無理やり引き抜いた。その僧はその後しばらく病に伏したという。

 また、石清水(いわしみず)八幡宮に一度は参詣したいと思いつつ、ついつい歳を取ってしまった仁和寺の僧が、ついに思い立って詣でることにした。ふもとの極楽寺・高良明神などを有難く拝んで満足して帰った。やっと念願がかなったとか知人に語ったが、実は八幡宮の本殿は男山の山上にあり、それも知らずにうかつなことだ、このドジ坊主、みたいなことが書いてある。

 筆者の吉田兼好は、出家して兼好法師とも呼ばれるが、特に仁和寺で修業したという事実は確認できない。仁和寺の僧の悪口めいた話が続いて、特に仁和寺に恨みがあったわけでもなかろうが、仁和寺が身近な立場にあったのかとも思われる。

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