京都世界遺産を深掘り【11.臨済宗 天龍寺】
嵯峨野「天龍寺(てんりゅうじ)」は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派大本山であり、山号は霊亀山、寺号は霊亀山天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来で、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされ、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
天龍寺の地には平安時代から、嵯峨天皇にちなむ離宮などがあり、天龍寺西方の小倉山の別称「亀山殿」と称された。その後征夷大将軍となった足利尊氏は、南北朝で対立した後醍醐天皇の菩提を弔うため、南朝大覚寺統由縁の亀山殿を天龍寺とした。いわば敵であった後醍醐天皇を弔う寺院の建立を尊氏に勧めたのは、武家からも尊崇を受ける禅僧 夢窓疎石であった。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられ、落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4(1345)年に行われた。
天龍寺伽藍は、その後応仁の乱などで何度も大火に見舞われ、創建当時の建物はことごとく失われ、京都五山の第一位として栄えた広大な寺域も縮小した。その後、時の権力者豊臣秀吉や徳川家康により寺領の寄進をうけ復興した。しばらくは安泰であったが、幕末元治元(1864)年、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、幕府軍や薩摩藩兵の攻撃により伽藍が焼失したため、現存伽藍の大部分は明治時代以降のものであるが、方丈の西側にある夢窓疎石作という庭園にわずかに当初の面影がうかがえ、方丈の北側には亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
天龍寺は明治の活動写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。映画のメッカ太秦に近く、その武家屋敷のようなたたずまいや、嵐山や渡月橋に近く変化の多い風景から、何度となく映画ロケに使われたが、現在はロケを断っているという。
天龍寺を身近な存在にしたのは、戦後すぐに第8代臨済宗天龍寺派管長に就任に就任した関牧翁に負うところも多い。関牧翁は、分かりやすい言葉で「禅の心」を広く一般の人に伝え、幅広い見識と自由奔放でさばけた言動で、政財界を始め多くの人たちと交流を持つとともに、天龍寺規則・宗制の改正を断行し、伝統を破り天龍寺の公開に踏み切るなど開かれた禅宗をめざした。
関牧翁は厳格な性格で仏道に精進していたが、戦後、管長になる頃に未亡人と恋愛に陥って物議を醸した。以後、人間味あふれる俗世に身近な禅僧として、酒食も俗人と同様にし、未亡人を入籍した。当時盛んとなったテレビにも、NHKを始めたびたび出演し、身近な禅の心を説いた。
薬師寺館長高田好胤らとともに、当時、深夜お色気バラエティとして一世を風靡した11PMなどにも出演し、生臭坊主という批評にも平気だった。元慶応ボーイでありイケメンという風貌もくわわって、祇園街でモテモテであったという風評もきいたが、真偽は不明。
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