京都世界遺産を深掘り【07.宇治 平等院】
「宇治平等院」は、琵琶湖南端から流れ出した瀬田川が、南郷から笠取の山間を通り、峡谷が開けて扇状地となる左岸に位置する。京都南郊の宇治の地は、平安のはじめから貴族の別荘が営まれており、9世紀末頃左大臣源融が営んだ別荘が、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、やがて摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となった。
道長の没後、その子 関白藤原頼通が、末法の世における浄土信仰の高まりのもとで、宇治殿を寺院に改め平等院とした。かくして宇治の平等院は園城寺(三井寺)の末寺として創建され、天喜元(1053)年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような「阿弥陀堂(鳳凰堂)」が建立された。
釈尊入滅から二千年を経過したあと「末法」の時代に入るとされ、永承7(1052)年に末法の世になると言われた。本来「末法」は、仏の在世から遠く隔たり、教法が正しく伝わらず、仏法がその効力をなくしてしまう時期とされ、正法・像法・末法という仏法上の区分だったが、平安時代末期には災害・戦乱が頻発し、終末論的な思想として捉えられるようになった。
「末法」は世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯え、末法では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなった。まさに末法が到来する永承7(1052)年、関白藤原頼通は、浄土信仰の象徴である阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立することにした。
阿弥陀堂は、浄土三部経などに説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。末法思想の広まりとともに、阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになり、平等院鳳凰堂の他にも、中尊寺金色堂・法界寺阿弥陀堂・白水阿弥陀堂などが現存している。
平等院は創建以来、藤原氏ゆかりの寺院として栄華を誇っていたが、その後何度も戦乱に巻き込まれている。治承4(1180)年の以仁王の挙兵の際に、以仁王側の源頼政が「橋合戦」で敗れ当院の「扇の芝」で自害している。寿永3(1184)年にはすぐそばで「宇治川の戦い」が行われた。承久3(1221)年の「承久の乱」の際には、鎌倉幕府軍の本陣が置かれ、付近で合戦が行われている。
建武3(1336)年「建武の乱」の一つとして、足利尊氏と楠木正成の合戦があり、阿弥陀堂(鳳凰堂)以外のほとんど焼失してしまった。室町時代には平等院は次第に荒廃し、文明17(1485)年に山城国一揆が発生し、南山城の国人衆や農民らが当院に入って評定を行っている。
平等院はのちの歴史的経緯から、天台宗最勝院と浄土宗浄土院が共同管理していて、現在は特定の宗派に属しておらず、昭和28(1953)年に「宗教法人平等院」となっている。近年には、庭園の発掘調査や・鳳凰堂堂内装飾の復元などが行われ、それまでの「宝物館」に代わり「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンしている。平成26(2014)年、鳳凰堂の大修理工事が完了し、あざやかな朱塗りと金色の阿弥陀如来坐像が再現されている。
いまの十円硬貨の表面には、平等院鳳凰堂が打刻されている。鳳凰とは、「鳳」が雄、「凰」が雌をあらわす伝説上の霊鳥であり、鳳凰堂の屋根の両端に鳳凰が取り付けられているのが、鳳凰堂という通称の所以である。その十円硬貨の鳳凰に、雌雄の区別があるという噂話がある。尻尾が垂れ下がっているのが雄で、跳ね上がっているのが雌だとか、右が雄で左が雌だとか様々な噂があるようだ。
実際に硬貨を見てみると、そのような違いはまったく分からない。どうやら、昭和26(1951)年から造幣され出した初期に、尾の下がったようなものが見られたということで、打刻する型枠の出来が悪かったのだろう、その後変更されているようで、以後に製造されたものには見当たらない。そもそも平等院の公式webでは、鳳凰堂の鳳凰に雌雄の違いは無いと断言されている。
(おまけ)
子供が小さい頃、平等院の近くに住んでいて、子供たちを連れてよく平等院に行った。改装前でまだ世界遺産の指定もなく、がらがらに空いていた。鳳凰堂の手前の池で、お尻を向けて股覗きして十円玉を池に投げ込むとラッキーがやってくるぞと、でたらめを教えて遊んでた。しばらくして元の場所に戻ると、女子大生らしきグループが、まねして股覗きしてコインを投げ込んでた。
この話をネットで書いたら、世界遺産にそんなことするなと怒られたが、そのころは古き良き時代だった。お寺のお賽銭にもなるし(笑)
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