2021年6月6日日曜日

#京都世界遺産を深掘り#【04.比叡山 延暦寺】

京都世界遺産を深掘り【04.比叡山 延暦寺】


 「延暦寺(えんりゃくじ)」は行政的には滋賀県大津市坂本本町にあるが、標高848mの比叡山全域を境内とするため、京都市にも縁が深い。平安京(京都)の北東にあり、奈良の興福寺と対で南都北嶺と称され、平安朝から中世を通じてその勢力を維持した。

 延暦7(788)年、最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされ、延暦寺という寺号が許されたのは、最澄没後の弘仁14(823)年のことであった。最澄の開創による日本天台宗の本山寺院で、空海による高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心となり、真言宗の東寺の密教「東密」に対して、延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

 最澄は弘仁13(822)年6月4日、比叡山の中道院で没する(享年56)が、没後7日目に、大乗戒壇設立の勅許が下され、翌弘仁14(823)年「延暦寺」の勅額を授かった。これにより、南都六宗から完全独立した天台宗が確立された。貞観8(866)年清和天皇より伝教大師の諡号が贈られ、以後「伝教大師最澄」と称される。その後も延暦寺は修行の本山として栄え、源信・法然・栄西・道元・親鸞・日蓮など、多くの名僧を輩出した。

 比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになり、正暦4(993)年、円珍派は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもると、以後「山門」(円仁派/延暦寺)と「寺門」(円珍派/園城寺)は対立・抗争を繰り返し、抗争の過程から僧兵(武装化した僧徒)が登場した。

 延暦寺の武力は強大となり、院政で権力をほこった白河法皇にさえ「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言わしめた。延暦寺の僧兵は神輿(御神体)を奉じて強訴するといった実力行使で、武家勢力に対して「寺社勢力」と呼ばれ、事実上の自治権を行使した。

 南都北嶺と呼ばれて、奈良興福寺の勢力と延暦寺の勢力は、抗争を繰り返した。さらに貴族に代わって権力の中心に就いた武家勢力とも、拮抗する武力を誇示した。しかし戦国末期に権力を確立した織田信長が京都周辺を制圧すると、延暦寺の僧兵勢力は反信長武将を支援するなどしたため、戦国統一の障害と見なした信長は、元亀2(1571)年、延暦寺を取り囲み焼き討ちにする。有名な信長の「比叡山焼き討ち」で、さしもの延暦寺勢力も山ごと焼かれて壊滅した。

 比叡山は、大津市と京都市の県境に位置する大比叡(848m)と京都市左京区に位置する四明岳(838m)との頂上を二つ持つ双耳峰である。そして延暦寺の根本中堂など主要建物は、さらに奥の滋賀県側に集まっている。京都市内の北部から比叡山を眺めると、東山連峰から北に向けて連なり、一躍高い勇壮な山としてそびえるが、丸太町より南に下ると、ふたこぶラクダの背中ように二つの凸凹が連なって見える。

 比叡山の修行は厳しい。山内に点在する院や坊の住職になるためには、三年間山にこもり続けなければならないとされる。その間、険しい山内を歩き回る峰行や、堂内での常坐三昧といわれる坐禅修行など、体力の限界まで厳しい修業が課される。なかでも最も過酷なのが「千日回峰行」である。7年間、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行で、途中、堂入りという荒行がある。これを満行した者は「大阿闍梨」と呼ばれ、第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在で14人とされる。

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