京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】
通称「西本願寺」は、京都市下京区七条上ルの堀川通りに面した地にあり、浄土真宗本願寺派の本山であり、山号は龍谷山、正式名称は「龍谷山 本願寺」である。真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。
弘長2(1262)年、浄土真宗開祖「親鸞」が入滅する、享年90。文永7(1272)年、親鸞の末娘 覚信尼は、親鸞の廟堂として京都東山に「大谷廟堂」を建立する。そして、元亨元(1321)年、第3世 覚如が大谷廟堂を寺格化し「本願寺」と号すると、親鸞を開祖と定め、以後「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになった。
覚如は、親鸞の門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図するが、強大な経済力・軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院によって弾圧を受けて、低迷を余儀なくされた。また、東国などでは親鸞の門弟たちによる教団が展開され、浄土真宗は決して本願寺に一本化されたわけではなかった。
長禄元(1457)年、第8世「蓮如」が本願寺を継承したころには、本願寺は衰亡の極みで青蓮院の一末寺としてかろうじて継承されていた。寛正6(1465)年、本願寺は延暦寺衆徒によって破却され、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
中興の祖とされる蓮如の布教により、門徒(真宗教徒)は東国に拡がりをみせ、北陸では加賀国守護富樫氏の内紛に関わり、やがて百年にわたる「加賀国一向一揆」にまで展開する。蓮如は一揆の鎮静をはかるが収められず吉崎を退去する。明応6(1497)年、蓮如は大坂石山に「大坂御坊」(大坂本願寺)を建立し隠棲、明応8(1499)年、山科本願寺で入滅する。
戦国の100年間に、本願寺は日本有数の大教団として、また強力な社会的勢力としての地位を得た。これは、教団の自衛としての意味もあるが、力を付けた民衆の解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力ともなった。それは一方で、戦国大名など世俗権力との軋轢もまねき、その最大のものが、約10年にわたる「石山合戦」である。
天下統一をすすめ京都に入った信長が、元亀元(1570)年、浄土真宗門徒の本拠地、大坂石山の「大坂本願寺(石山御坊)」からの退去を命じたが、石山本願寺勢力は信長に徹底抗戦する。10年にわたる交戦のあと講和が成立するが、徹底抗戦勢力が籠城したため、「大坂(石山)本願寺」には火が放たれ灰燼と化した。
まもなく「本能寺の変」が起こり、信長が自害すると、あとを継いだ豊臣秀吉により石山本願寺跡地を含む一帯に「大坂城」が築かれた。本願寺は、秀吉の寺地寄進をうけて大坂の天満(てんま)に移るが、さらに天正19(1591)年、豊臣秀吉から京都に寺地の寄進を受け、現在地に移転した。
「石山合戦」で和議を受け入れた第11世門跡 顕如は、徹底抗戦を唱える長男 教如との間にしこりが残り、教団の内部も穏健派と強硬派に分裂し、これが東西本願寺分立の伏線となった。顕如入滅にともない、教如が本願寺を継承するが、穏健派は三男の准如に継職させるよう秀吉に願い出て、弟の准如が第12世本願寺宗主となる。
関ヶ原の戦い後、天下人となった家康に接近した教如は、家康から「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の寺領を寄進され、教如はここを本拠とする。かくして本願寺教団は、「准如を12世宗主とする本願寺教団(真宗本願寺派/西本願寺)」と、「教如を12代宗主とする本願寺教団(真宗大谷派/東本願寺)とに分裂することになる。正式には、慶長8(1603)年、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、「本願寺(東本願寺)」が開かれた。
西本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているが、観光寺院ではなく信仰を旨とする寺であるため拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。
東西の本願寺は、五条通りから七条通りの京都の中心地に広大な土地を所有する。その所有地に多くの民家が建ち、借家も多く、それらの借家には高齢者夫婦などが住まっている。古くからの借家は家賃が安いので、高齢者は移転が難しく、下京区の高齢化が進んでいるという。
この地区はJR京都駅の北面にあたり京都の玄関口であるが、商業集積は比較的遅れており、京都の商業中心地は四条河原町周辺に奪われている。これは、五条通りから京都駅前の塩小路通りに挟まれた広大な中心地域が、商業に積極的でなかった東西本願寺と旧国鉄の所有地であったためと言われている。
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