京都世界遺産を深掘り【12.鹿苑寺(金閣寺)】
「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、京都市北区の衣笠山麓にあり、臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭とされる。金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿が金閣(きんかく)と称され、寺院全体は金閣寺(きんかくじ)と呼ぶ方が一般に知られている。
開基(創設者)は室町幕府3代将軍である足利義満で、義満の別荘であった北山山荘を、その死後に寺としたものである。舎利殿金閣は、唯一残されていた室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25(1950)年に放火により焼失し、昭和30(1955)年に再建された。そのため舎利殿は国宝指定からは外されており、金閣寺庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されている。
金閣の再建は、昭和27(1952)年に着手され昭和30(1955)年に落慶したが、明治39(1906)年の解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造や意匠を踏襲している。なお、頂上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存している。
鹿苑寺自体は、応仁の乱で西軍の陣となり建築物の多くが焼失するなど、荒廃していたが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2(1649)年に大修理された。明治の廃仏毀釈により、寺領の多くを失い経済的基盤を失ったが、明治27(1894)年から拝観料を徴収して、寺収入を確保するなど、観光寺院としての先鞭をつけた。
金閣再建後も、金箔が剥落して劣化が目立ったため、昭和61(1986)年から「昭和大修復」が行われ、この時に貼り替えられた金箔には通常の5倍の厚さのものが使われた。江戸時代の金閣や消失再建後の金閣も、金箔の落剝した姿が一般的だったので、現在の燦然と輝く金閣を拝観できるのは、むしろ幸いとすべきかもしれない。
拝観のポイントは金閣そのものだけではなく、なだらかな衣笠山を借景とし、鏡湖池が金閣を水面に映すという回遊式庭園とされている、国の特別史跡特別名勝「金閣寺庭園(鹿苑寺庭園)」全体を楽しむべきであろう。鏡湖池には葦原島・鶴島・亀島などの島々のほか、畠山石・赤松石・細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
火災から再建された翌昭和31(1956)年、三島由紀夫は「金閣寺」を発表する。放火犯で吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と、荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。綿密な取材に基づいた観念小説であり、「仮面の告白」の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であったと言える。
一方、直木賞作家として遅いデビューとなった水上勉は、三島より数歳年上とはいえ同世代に属するが、戦中に十代すでに文壇デビューしていた三島とは、まったく異なる文学履歴をもっている。水上は昭和42(1967)年に「五番町夕霧楼」で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした小説を書く。
吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局、放火するより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」では、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子をヒロインとして、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。
高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた「雁の寺」で直木賞を受賞し世に認められた。
水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭地方のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも「金閣炎上」というドキュメンタリー作で、再度、放火犯林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
文学に関心のあるむきは、単なる金閣寺観光だけでなく、この両小説を読み比べてみるのも、一趣ではないだろうか。
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