京都世界遺産を深掘り【03.音羽山 清水寺】
「清水寺」は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。昭和40(1965)年、住職の大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。また、日本でも有数の観音霊場であり、さらに鹿苑寺(金閣寺)などとともに有数の観光寺院で、多くの参詣者が訪れる。
奈良末期の778年に僧延鎮が開山、平安建都間もない延暦17(798)年、坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝えられる。現在の建物の多くは、寛永8(1631)年から10(1633)年、徳川家光の寄進によって再建されたものである。東山の音羽山を背に建ち並ぶ伽藍は、仁王門・西門・三重塔と並び、経堂の奥には懸崖造りの本堂(国宝)の舞台が断崖の上にせりだし、いわゆる「清水の舞台」として有名である。
思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りる」というが、江戸時代の記録には飛び降りを試みた人が200人以上いたと記されている。これは観音様に命を預けて願掛けするのが目的で、自殺ではない。明治になって、この飛び降りは禁止された。
このあたり一帯は「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれ、平安時代以来の墓所や葬送の地として名を残し、「徒然草」に「あだし野の露、鳥辺山の煙」とつづられている。鳥辺山の煙は当然火葬の煙だが、火葬や土葬で葬られるのは貴族だけで、庶民は「風葬」といって野や谷に遺体をさらし風化に任せられた。
一説によると、清水の舞台も、谷に遺体を捨てやすいようにせり出しており、谷底からの死体の臭いが届かないように、あの高い舞台にしたと言われている。いまでもこの近くには、京都市営墓地や京都市中央斎場があり、鳥辺野の伝統を継承している。
東大路通松原から音羽山の清水寺に至る参詣道は清水坂と呼ばれ、東大路五条からの五条坂や、祇園八坂神社方面からの二寧(二年)坂・産寧(三年)坂と呼ばれる石段坂の道が、清水坂に合流して清水寺山門前に至る参道となる。これらの細い坂道の両側には、参詣者や観光客向けの数多くのみやげ物店が軒を連ねている。
本堂の舞台から市内を見下ろし、それで満足して帰る人が多いが、本堂の先には釈迦堂・阿弥陀堂・奥の院が崖に面して建つ。また、本堂東側には名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれパワースポットとなっている。本堂の北隣には地主神社(じしゅじんじゃ)があり、縁結びの神として信仰を集めている。
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