2021年6月9日水曜日

#京都世界遺産を深掘り#【05.深雪山 醍醐寺】

京都世界遺産を深掘り【05.深雪山 醍醐寺】


 「醍醐寺(だいごじ)」は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院だが、実質的には山科盆地の南部に位置する。山号を醍醐山(深雪山)と称し、本尊は薬師如来。京都市山科区から伏見区および宇治市にかけて広がる醍醐山(笠取山)に、広大な境内を持つ。

 貞観16(874)年、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が、笠取山山上に開山し、山頂付近を「醍醐山」と名付けた。山深い醍醐山上に開かれた寺域は「上醍醐」と呼ばれ、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が手厚い庇護を与え、延喜7(907)年には薬師堂が建立され、さらに釈迦堂(金堂)が建立されるなど、醍醐山西側山麓の広大な平地に大伽藍が造成され、こちらは「下醍醐」と呼ばれ大いに栄えた。

 その後、応仁の乱などで下醍醐は荒廃したが、のちに豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることになり、秀吉によって三宝院が再興されるなど伽藍が復興され、慶長3(1598)年に「醍醐の花見」が盛大に行われた。さらに、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長11(1606)年ごろには、ほぼ下醍醐の伽藍の再建が成った。

 醍醐の花見は、豊臣秀吉の最晩年に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催された華やかな花見の宴で、豊臣秀頼・北政所・淀殿らや、諸大名からその配下の女房女中衆約1,300人を従えた盛大な催しとなった。これは、九州平定直後の秀吉最盛期に催された「北野大茶湯」と双璧を成す秀吉一世一代の催し物とされる。

 荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖で第80代座主である義演は、秀吉の厚い帰依を得ていたが、秀吉の最期が近付いているのを感知し、秀吉の最後の大舞台を演出したと言われ、秀吉はこの5ヵ月後に没する。醍醐寺ではこれにちなんで、現在も4月第2日曜日に「豊太閤花見行列」が催される。

 明治時代の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたとき、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりするなかで、醍醐寺はその建築物や寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けた結果、現在の醍醐寺では多くの国宝や重要文化財が残されており、平成6年(1994)には、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。

 醍醐寺の名称は、醍醐天皇の手厚い庇護のもとで栄えたのに由来するが、その「醍醐」の由来については意外に語られることがない。後醍醐天皇から、若者に受けたゴダイゴというバンドグループまで、よく身近に聞かれる言葉だが、その文字をさらさらと書ける人も少ないのではないか。

 「醍醐」とは実は仏教用語であり、仏教の大乗経典「大般涅槃経」の中に、五味として順に乳→酪→生酥→熟酥→醍醐と精製され一番美味しいものとされ、涅槃経にも同じく、最後で最上の教えであることのたとえとして書かれている。これを「五味相生の譬(たとえ)」という。

 「醍醐味」という言葉は、物事の本当のおもしろさや最も深い味わいを指すという。物事の最上の深い味わいを示すのだが、「味」という文字からも、それが食物由来と想像できる。涅槃経の記述からは詳細の製法は不明だが、乳を発酵させて精製した乳製品であることは間違いなく、ヨーグルトやチーズの延長線上の食品なのであろう、僧の修業時の効果的な栄養食として饗されたことが伺える。


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