2024年11月6日水曜日

#京都回想記#【27.高校生から受験浪人に】

京都回想記【27.高校生から受験浪人に】


 鬱状態に落ち込んだまま高3の新学期を迎えても、一学期の中間試験の直前まで登校できなかった。なんとか中間試験にのぞんだが、もちろん惨憺たる結果だった。鬱状態からは徐々に恢復しつつあったが、根を詰めて机に向かうとまた復活しそうなので、その後の高3生活は例の4人組で、街中を徘徊しながらぶらぶらと過ごした。

 高校三年生という受験期の年にぶらぶらと過ごしたのだから、大学は何校かひやかし気味に受けたが、当然ながらどこにも受からなかった。当時はのんきな時代で、まわりの友達もほとんど受験浪人ということになり、近くの地元予備校に通う。

 当時は現役生が大学受験のために予備校に通うということは皆無で、浪人生のための予備校だった。公立高校生も「4年制公立高校」などと自虐的に呼んで、3年間遊び惚けて、1年浪人してから適当な大学に潜り込む、という意識だった。ということで、近くの予備校では高校の続きみたいな顔見知りが多く、そこでつるんでまた遊びに行くという状況だった。

 自分はそれを避けるように、少し離れた予備校を選んだが、結局予備校の授業にも着いて行けず、夏休み前には通わなくなった。高校も予備校も理数系を選択していたが、肝心の物理・数学がさっぱり分からなくなっていた。その頃からは志望を文系に変更して、経済学部にしたが、確固たる信念があったわけでもなかった。

 これまでぶらぶら過ごしてきたので、その気になって取り組めば何とかなると思っていたが、

2024年11月2日土曜日

#京都回想記#【26.高校時代 5】

京都回想記【26.高校時代 5】


 高2から高3の間はクラス替えが無かった。クラスになじみ損ねて学校が楽しくなくなった。授業をサボってはあぶり餅屋にたむろしたり、例の3人で学校周辺の喫茶店めぐりなどをしていたが、2年生になってからMが仲間に加わって4人組となった。授業を欠席することは、ますます多くなった。

 2年生も二学期末になって、さすがにこれではまずいと、学習の遅れを取り戻そうと思って、見向きもしてなかった教科書を開き始めた。ちょいと気張ればすぐに取り戻せるだろうと思っていたが、これが思いのほか進まない。一ヵ月ほど根を詰めたせいか、夜中に精神的に不安定になって、ウィスキーをラッパ飲みして誤魔化そうとした。しかしこれが却っておかしくて、翌朝まで一睡も寝られなかった。

 今から思えば鬱病の初期状態だったのだろうが、当時は明快な定義も無く、たんなるノイローゼと言われた。医者を変えたりしても安定剤をもらう程度で、一向に快方に向かわず、さる開業から提案された電気ショック療法というのを、藁にもすがる思いで受けた。

 これが効果があって、麻酔からさめるとスーっと気分が快適になっていた。その後、また戻るので数回受けることになったが、この療法が契機に正常に戻っていった。すでに三年生になる前の春休みになっていたが、元気が出てきたので、これまでの生活を立て直そうと思った。

 思春期の片思いみたいなモヤモヤをはっきりさせようと、思い切ってO子の自宅を訪れて、その旨を伝えたら、付き合ってる人がいるのと言われて、またもやがっくりとして落ち込んだ。そのまま三年生の新学期が始まったが、登校する元気も出ず、一種の引きこもり状態になった。自宅にAが様子見に来てくれたようだが、会うことも出来ず帰ってもらった。

2024年10月22日火曜日

#京都雑記#【20.「京都三大祭り」まとめ】

京都雑記【20.「京都三大祭り」まとめ】


葵祭(5月)

 賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭りで、古くは賀茂祭と呼ばれた。祭の起源は、欽明天皇の567年、悪天候が続き占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるとされ、それを鎮めるために4月の吉日に祭礼を行うことになった。

 源氏物語など王朝文学にも登場するわが国でも最古の祭りで、その後何度も休止されるがそのつど復興され、戦後からは勅使代や斎王代を中心に、平安王朝風俗の行列が中心となっている。行列の本来の主役は勅使代であるが、今では華やかな斎王代がヒロインとなっている。現在では、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に路頭の儀の行列が行われる。

 中心祭事の路頭の儀では、王朝風俗の絢爛な衣装を身にまとった人々が、牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。なかでも加茂川に沿って加茂街道を進む光景は圧巻で、王朝絵巻を彷彿とさせる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B5%E7%A5%AD


祇園祭(7月)

 863年(貞観5年)疫病の流行により、疫病を鎮め無病息災を祈念するため御霊会(ごりょうえ)が行われたが、その後も富士の大噴火や貞観大地震などの天変地異が引き続き、国の数をだけの矛を立て、神輿を送り牛頭天王を祀る御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。

 やがて八坂祇園社(八坂神社)の祭祈として行われるようになり、もとは神輿渡御が中心だったが、さらに山鉾巡行の壮大な祭事に発展した。鎌倉時代末期には、町人衆による付祭の芸能も盛んになり、室町時代に至り、四条室町を中心とする下京地区に商工業者(町衆)の自治組織の町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。

 応仁の乱以降何度も中断されるが、その都度再興されたが、江戸期の京都の三大火事によって、祇園祭の山鉾も大きな被害を受けた。戦後には次々と山鉾が復興され、現在では前祭・後祭を合わせて7月一ヵ月に及ぶ町衆の盛大な祭りとして繰り広げられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD


時代祭(10月)

 1895(明28)年、平安遷都から1100年目を記念し、平安遷都千百年記念事業として、内国勧業博覧会と時期を合わせて挙行された。3月に「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。その紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在にまで続いている。

 平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿を京都御所まで神幸させて祭典を執り行い、ふたたび平安神宮へ還御するが祭祈であるが、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。

 行列は8つの時代、20の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、年代が新しい順に、最初は明治維新から始まり、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続く。葵祭は平安王朝の風俗行列だが、時代祭は平安朝から明治維新に至る時代を網羅した行列であり、約3時間に及ぶ長い行程となる。現在では、正午に京都御所を出発し、京都の中心部を練り歩き平安神宮に至る約4.5キロとなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD

2024年10月15日火曜日

#京都回想記#【25.高校時代 4】

京都回想記【25.高校時代 4】


 高一になったころは、まだ中学生気分が抜けず、あまり女子も意識することがなかった。二学期になって、われわれ3人がクラスで一緒にいることが多くなった。その時期に、クラスに女子でも仲良しグループの4人がいて、なんとなくわれわれ3人組と相性がよさげで、たまにちょっかいを掛け合う場面もあった。とはいえ、とくにグループ交際とか個人的に付き合うとかは無くて、子供のお遊びレベルでしかなかった。

 「青い山脈」のような青春ロマンがあれば良いのだが、実際はその気配さえなかった。書くほどの何もないのだが、今後とも書くことも無いだろうから、この機会に少し書いておこう。とにかくわれわれのグループは、A、K、と私Sとしておこう(高二からMが加わるのだが、この時は登場しない)。そして、多少ながら交流があった女子の4人グループは、A子、M子、O子、S子としよう。

 たまたま、それぞれのグループが、クラスで一緒に行動しだしたのは、高一の二学期からだった。先に書いたが、その中でもなんとなくO子が気になる存在だったが、まったく口をきいたことも無かった。そして、いち早くKがO子を好きだという噂が広がったため、言い出しにくくなっていた。

 女子グループでリーダー的存在はM子で、地方新聞の読者投稿欄にわたしが稚拙な投稿をしたのを目ざとく見つけて、それを指摘されて恥ずかしい思いをしたりした。M子は小柄ながら見た目かわいげな容姿なのだが、性格的にはちょこまかとしてちょいとおせっかいなとこがあり、あまり女子として意識されることが少なかったようだ。ある時、われわれ仲間のリーダー的だったAが、自分の掛けていた伊達メガネのような黒縁眼鏡で、鼻の付け根にかかる場所にインクをぬりつけて机に放置した。すると案の定、好奇心旺盛なM子がそれを掛けてみた。鼻頭を青く染めたM子を見て、みんなで笑ったもんだ。

 A子はおかっぱ頭で小柄、ざっくばらんで気軽に話せそうなタイプで、異性を意識したりさせたりするという気配は少なかった。二年生になってクラス替えがあり、みんな別々になったが、三年生の体育祭前夜祭の時だったかな。夕方からグラウンドでファイヤストームを焚いて、自由参加のフォークダンス大会がある。

 各自が男女ペアで参加するのだが、なぜかこの時ばかりは女子が男子を誘うといった不文律あったような。もちろん単独参加してもよいが、女子に誘われた体裁をとらないと恥ずかしいような雰囲気があり、そういう機会を得られなかったもてない男子は、参加しないで部屋でくすぶっているという感じだった。

 自分たちも後者の類で、一二年生のときはグラウンドにはひやかしに行っても、すぐに仲間とともに別のとこに遊びに行った。三年生になっても、また不愉快なフォークダンスの日がやってきたなと、自部屋でくすぶってると、なんとA子がママチャリで誘いに来てくれた。ということで、嬉々として参加できたのであった。

 S子とは、入学して間もないころ、学校からの帰り道が一緒になり、入学したての高揚期でもあったのか、デートに誘って映画を観に行ったことがあった。プレスリーが歌って踊りまくるという娯楽映画だったが、中年がかって太り気味のプレスリーの動作はゆるく、新人のアン・マーグレットに食われ気味で、つまらなかった。そのせいでか、帰り道でも二人の話は弾まず、付き合いはそれっきりになっていた。

 その後、われわれ仲間の交遊が始まってしばらくしてから、AがS子を好きだと言い出した。その前後に、M子がAに、私たちの間で映画でデートするほどのカップルがいるんよ、などと言っていたらしいが、それが自分のことを指しているとは、夢にも思わなかった。そんなわけで、O子のこともS子のことも、言い出すことができないままになっていた。

 AとKとはどっぷりと付き合う仲間になっていたので、二人がわたしの部屋で酒に酔っぱらって、そのまま徹夜することもよくあった。その翌日、3人で近くの神社境内でうろうろしていたら、AとKが、夕べお前の日記を読んだと言い出した。当時はメモ程度の備忘録みたいなのを書いていたので、それを見られたのだと思った。

 そして、やっとお前が好きな子が分かったと言い出した。仕方なしに観念して、実はO子が好きだったんだと自白すると、二人は釜を掛けていただけで実際に読んだわけではなく、しかもM子が好きなんだろうと推測していたらしい。そんなわけで、実際には何にもなく、小学生の好きな子アテッコみたいなうぶな青春交友記であった。

2024年10月13日日曜日

#京都回想記#【24.高校時代 3】

京都回想記【24.高校時代 3】


 一年生での教室は、校地の最奥のプレハブ校舎だったが、他クラスとの接点も少なく、その分クラス生徒の結びつきは強めになった。当初は、中学時代の同級生らとの付き合いが多かったが、そのうち他中学出身者とも付き合いができるようになった。中でもAやKとは、夏休みごろから密接に付き合うようになった。

 Aは、他の街で一旦高校を中退して、あらためて紫野高校に入学し直したので、一年分の歳を食っていた。その分、いろんなことをよく知っており、元来の社交的性格もあって、多くのクラス仲間を引き付けた。10人ぐらいを引き連れて繁華街に出ると、喫茶店や食堂など、中学生までは行ったことも無い店でも、平気で入って行った。

 Kもまた話が上手で、多くの生徒に人気があり、顔が広かった。AとKの様子を見て、この二人とより親密になりたいと思っていたが、二学期に入ること、われわれ三人が連れ立って、学校周囲をうろつくことが多くなった。二人はそれぞれ生徒間に人気があったが、自分には社交性がなく、この二人を通じてはじめて他の仲間とも接点を結べた。

 それでも多くのやんちゃで個性的な奴らと接点ができて、やたら高校生活が楽しくなった。そういうヤンチャ仲間のたまり場となったのが、今宮神社のあぶり餅屋の座敷であった。今宮神社参道に「一和」と「かざりや」が向い合せに営業していて、われわれの学年は、もっぱら「かざりや」に居座った。

 授業はサボって、奥座敷に上がり込んで、まる一日すごすこともあった。あぶり餅は一人前50円で、土瓶にいれたお茶はお替わり自由、それで一日居座っても文句は言われない。碁盤や将棋盤が置いてあり、座布団を囲んで花札でも遊んだ。わずかな小遣いを賭けて遊んでたら、襖の向こうから「お前ら、何してる」という教師らしい声がした。

 慌てて座布団を返して花札を隠し、吸い殻で一杯の灰皿をひっくり返すやら大騒ぎ、パニック状態で廊下に逃げ出す奴もいた。一段落つくと、実は遅れてやってきた仲間の一人が、教師の声色を使っていたずらしたのだと分かって、そいつはフクロ状態w かざりやは裏木戸から街道に出れるのだが、一和は行き止まりで古井戸に飛び込むよりほかない、かざりやでよかったと、変な自慢をする奴もいた。


2024年10月12日土曜日

#京都回想記#【23.高校時代 2】

京都回想記【23.高校時代 2】


 入学した時は、まだ正門や本館は建築途中で、かなりオンボロの木造旧校舎のままだった。東側今宮門前通に面した正門を入ると右手には、まだ旧女学校時代の木造校舎が使われていて、石畳の通路をさらに奥に進むと石段を上って、高台にでる。丘の上と呼んでたそこには、体育館やちょっとした広場がある。

 団塊世代のピークにあたるわれわれが入学すると、新館はまだ建築中で教室が足りなくなり、その丘の上に空き地に急造のプレハブ教室が作られ、それがわがクラスの教室だった。何ともみすぼらしい教室だが、ここで一年生の期間、楽しく過ごした。施設や設備は貧弱だが、一歩外へ出ると大徳寺や今宮神社の境内に囲まれ、さらに南には船岡山公園があり、緑豊かな環境に恵まれていた。

 高校では校則で縛られるもことも無く、自由に振舞えた。制服も無く、学外に出るのも自由、多くの教師は出欠も取らず、たとえ欠課となっても1/3以内なら大丈夫と聞いていた。そんなわけで、しょっちゅう授業をサボり、仲間と校外をうろついた。周辺は大徳寺の境内や今宮神社や船岡山など、時間をつぶす場所には事欠かない。

 なかでもサボり組み連中がたむろしたのは、今宮神社参道にある「あぶり餅」だった。向い合せに二軒あるうち、われわれの学年は「かざりや」と決まっていた。なぜか、一和とかざりやに、学年ごとに向い合せに対峙して、たまり場としていた。通学のとおりみちなので、学校に行く前に立ち寄ってみると、かならず誰か仲間たちが居て、そのまま上がり込んで放課後になるまで遊んでることも多かった。

 ほかにも、仲良し仲間と近隣の喫茶店めぐりをした。あるとき、学校の裏の方に新しい喫茶店ができたと聞いたので、いつもの仲間で行ってみた。「珈琲舎」という小じんまりした店で、定年退職した老齢の夫婦が、喫茶店をもつのが長年の夢で開いたという。ご主人のマスターは、小柄でワイシャツに蝶ネクタイという洒落た装い。一方の奥さんは、割烹着をまとって、てきぱきとウェイトレスにいそしんでいる。注文を聞きに来たのでレモンティーを頼むと、「レモンテーですね」と鶯のような声で復唱してくれた(笑)

2024年10月11日金曜日

#京都回想記#【22.高校時代 1】

京都回想記【22.高校時代 1】


 昭和39(1964)年4月に「京都市立紫野高校」に入学した。京都市内の公立高校は京都府立が大半だが、京都市立も4校ほどある。紫野高校も、戦後になってその一つとして、大徳寺の旧寺域に京都市立として創設されたものである。

 戦前にはこの地に、臨済宗各派連合の運営になる「般若林」という僧侶養成機関があった。その後、学制変更で「(旧制)禅門立紫野中学」となり、ここには小説「雁の寺」を書いた、直木賞作家の水上勉が、妙心寺や等持院で小僧として修業中に通わされていたという。一方で、同じ敷地内には、私立の「淑女高等女学校」もあったという。

 戦後になって新制高校生が急増したため、旧制中学を新制高校に学制変更するだけでは足りず、あらたに新制高校が幾つも増設され、その一校が京都市立紫野高校として誕生した。したがって、戦前の旧制紫野中学とは、まったく関係ない新設の新制高校として、昭和27(1952)年に開校した。私たちの学年は、その15期生ということになる。

 開校時の様子はよく分からないが、初代の林校長は私たちが入学した時も現役で、校内をふらふら巡回していた。ズボンから日本手拭いをぶら下げ、用務員と間違うような構わないなりで、何か話すことも無く校内を巡回していた。聞くところによると、開校準備には新規の生徒たちと、散在しているの墓石などを脇に除けて、グラウンドの整備などしたという。

 開校から15年近く校長を務め、新規校に過ぎなかった紫野高校を、「自由と規律」という生徒を縛らない校則で、自由で自主的な校風を作り上げた。校歌も校内公募で制定するなど、どこまでも民主的な学校運営をした。我々が高3になった時、林校長は定年を迎え、退任挨拶のあと、生徒たちの万雷の拍手を浴びながら引退していった。

 そんな校風で、自由で開放的な高校生活を満喫した。制服制帽などは無く、学外への出入りも自由、成績がよかろうが悪かろうが誰にも文句を言われない、出席時間数も、1/3以上の欠課にならなければ大丈夫で、生徒手帳に「正の字」を記して欠席管理をしてた。そもそも半数以上の教師は出欠も取らなかった。進路指導も進学指導も、3年間一度も受けた記憶が無い。自主自由と言えば聞こえがいいが、早い話が自由放任で、自分の意志でやれという無言の方針だった。

 当然ながら、一年生の時から勉学を忘れて遊び倒す。成績はどんどん下がるが、そのうち何とかなるだろうと好い気なもんだった。高校三年間を遊び倒して、一浪して適当な大学に潜り込むというのが定番で、これを「四年制公立高校」と自称していた。おかげさまで、高校での三年間では、それまでの十年分ぐらいのいろいろな経験をした。

2024年10月8日火曜日

#京都回想記#【21.中学三年生、最終学年】

 京都回想記【21.中学三年生、最終学年】


 昭和38(1963)年4月に、中学最終学年の三年生となった。新しい教室はグラウンドから高い段差の階段をン上った高台にあって、東下にグラウンド、さらにその向こうの東山連峰には、ひときわそびえ立つ比叡山が望める。授業中も、ひたすら窓の外の景色を眺めてたw

 クラスも結構賑やかな連中がそろっていて、常に一緒に連れ歩くような仲の良い友達もできた。そのため、クラスでも中心的なグループとして、昨年度とは違って、快適な学級生活を過すことになった。中三になっても特に進学を意識することも無く、適当に定期試験に間に合わせる程度だった。ただ三年生になると、高校進学希望者は、民間業者の模擬テストを受けるように指導され、年間8度ほどある模擬試験を受けた。

 京都市内の進学希望者がほぼ受けるので、1万人近くが受けるテストだった。第一回目は隣の加茂川中学校で受けるなど、普段ないような雰囲気で結構楽しかった。現在ではありえないが、
試験の結果は点数順に上位100位までが発表された。自分は普通に受けてとりわけよくできたという感覚もなかったが、結果は上位から3番目の得点だったようだ。なんか気抜けして、その後の最終学年は仲間と遊び倒した。以後の模擬テストは、当然低下する一方だったが、それでも100位までのリストには顔を連ねていた。

 修学旅行はこの時期、公立の小学校は伊勢、中学校は東京、
高校は九州というのがほぼ決まっていた。当時の国鉄では、修学旅行専用列車を走らせていた。京都から東京まで直通で走るので、引率教師は乗り降りの心配をしなくて済むので重宝しただろうが、ダイヤの合間をぬって進むので、1時間ぐらい駅で待機とかが平気であって、ほぼ10時間ほど掛かった。都内観光は貸切バスで、浅草・国会前・東京タワーなど定番コースまわったが、前夜の旅館での枕投げなどで、バス内ではほぼ全員い眠っていた。

 年が明けて三学期になると、早々に一部の私立高の受験が始まる。50人学級のうち、1/3が公立高、さらに1/3が私立高、残りは就職組という風に分かれる。当時は特別な進学高も無く、上位組はほぼ近くの公立校に進む。それ以外が私立ということになる。なんとなく受験を済ませたら地域の公立高校に決まった、という感じだった。そんなわけで、小学校から高校まで、すべて徒歩で通える範囲で、みんなと決まったコースを歩むという風に、これという変化も無い学生生活だった。

2024年9月24日火曜日

#京都回想記#【20.中学二年になったけど・・・】

京都回想記【20.中学二年になったけど・・・】


 昭和37(1962)年4月、当然ながら中学二年生になった。校地の北西の端に遅ればせながら新校舎が建築中だったが、一部の棟が完成し二年生のクラスがはいることになった。初めての鉄筋コンクリート建てと言うことだったが、さっそくワルどもが廊下の壁面を蹴っ飛ばして穴をあけた。壁面などはスレートボードでペンキを塗っただけだから、簡単に破れたみたいだ(笑)

 新校舎で新学年の中学生活が始まったが、新クラスにはなかなか馴染めなかった。友達を作り損ねて、なんとなく孤立気味の生活だった。部活も二年生になる前に止めたし、勉学は適当になんとかなったが、これといって打ち込めることもなく、なんとも楽しくない中学生活だった。

 兄が結婚してアパートで新所帯を始めたので、二階の一間が空いた。それまで自部屋も学習机もなく、居間の食卓の隅でちょこちょこっと宿題を済ます程度だったが、あまり関心の無かった親も見かねたのか、その部屋をあてがってくれた。大工仕事の好きだった父親が、その辺の材木を使って机を作ってくれた。

 正規の部活ではないが、ワンダーフォーゲル部という同好会的な集まりがあった。なんとなく楽しそうなので参加してみた。近くの山間にある池など日帰りで行ったが、既存のメンバーは山歩き用の靴などで決めていたが、こちらは臨時参加的位置づけで、靴も運動靴と、なんとなく肩身が狭い思いがした。

 二年生が終わった春休み、これらのメンバー10人ぐらいで、京都市内では一番高いという愛宕山に上ることになった。春とはいえ、まだ山間には雪が残っていて寒い時期だった。高いといえ、たかだか800m程度の山で、山頂には愛宕神社もある。行きはよいよいで一気に山頂まで上り、帰りに谷川に降りて飯盒炊爨をする計画だった。

 谷に降りるとき道を間違ったようで、雪が残っている谷を下っても道が無くなり、軽装備の足元は雪に濡れて冷え込むばかり。とりあえず平たい場所を見つけて、飯を炊こうとしても、芝などが湿っていて火が付かない。ほとんど生煮えの飯を少し口に入れた程度で、もう日が陰りだした。

 谷底ではどこに居るのか分からないので、稜線に上がってみると、ずっと下の方に町が見えた。方角からすると、上った清滝町からはるか離れた高尾の集落だった。とにかく町が見えたから、そちらに向かう道を見つけて下った。やっとの思いで国道筋に出たときには、みんなホッとした様子だった。

 バスに乗って金閣寺にまで出たときには、もうどっぷりと日が暮れていた。やっと学校にたどり着いたのは午後8時ぐらいで、父兄たちが心配して学校に集まっていた。800m級の山で遭難という不名誉は、何とか免れたのだった。

2024年9月21日土曜日

#京都回想記#【19.中学一年生】

京都回想記【19.中学一年生】


 昭和36(1961)年4月、京都市立旭丘中学校に入学した。近隣の3つの小学校から生徒が集まるので、1学年で12クラスになった。自分は待鳳小学校で、ほかに鳳徳小と鷹峯小から来る。これまでとは違う小学校から集まるので、それぞれ雰囲気が違う。待鳳学区は織物関係の家庭が多かったが、鳳徳学区にはサラリーマン家庭が多かった。鷹峯小は丘の上のはずれにあって、分校のようで生徒も少なかった。

 新しいクラスにもすぐに馴染んだ。賑やかな鳳徳地域のグループと仲間になり、なんとなく彼らの方が大人びていて、来ているものもコ洒落ている気がした。隣の席の色白で眼鏡をかけた女の子が、突然話しかけてきたが、こちらは小学校でもほとんど女子と話すことが無かったので、不慣れな応答に困った。

 すると見ていた別の男子生徒が、好きなんやろと冷やかしてきた。そいつはオカマっぽい話し方をしていて、女ばかり姉妹の間で育ったそうで、女子の対応にも慣れていて、平気でしゃべっていた。まだ小学生気分が抜けていないので、異性を意識するほどではなかったが、不慣れな会話には困った。

 小学校では、担任がほとんどの教科を教えたが、中学になると教科ごとに専門の教師が担当する。社会科はベテランの男性教師で、1年生では日本と世界の地理を習う。さすがにベテラン教師で、まず地図の索引での調べ方をマスターさせるため、毎回の授業始めの5分ほどでちょっとしたゲームをする。先生が黒板に誰も知らない地名を書くと、一斉に調べて、最初にその場所を見つけたら、黒板の隅に生徒の名前と「正の字」を一本書き入れる。そうして競わせるので、生徒は地図をよく調べるようになった。

 また、世界地図を憶えさせるために、聞いたことも無い東欧圏の国の首都名を言わせたりして、知らず知らずにほとんどの国の首都が言えるようになった。これは、その後の世界のニュースなどを聞くと、すぐにどの辺の話かが分かるので非常に役に立った。この時期に憶えたことは、この歳になっても忘れないでいる。もっとも、60年も経てば国名や首都名は大半が変わってるが、その辺はなんとかなる(笑)


 中学になると部活が始まるが、器械体操部にしばらく所属した程度だった。しかしマット運動や鉄棒で身に着けた柔軟性や俊敏性は、通常の体育授業の課題は楽々とこなせたので、中学三年間はほとんどフルマークだった。いずれにしても、小学校とは異なる各科目の授業にもなじんで、最初の中学の一年間を楽しく過ごした。

2024年9月7日土曜日

#京都回想記#【18.町内一周】

京都回想記【18.町内一周】


 近所の遊び仲間が集まると、今日は何をやって遊ぼうかとなって、誰かが「ドロッコ」とかいう。地域によっては「ドロケイ」ともいって、逃げ回る泥棒組と追いかける警察組に分かれて行う。組み分けが済むと、次は遊びの範囲を定めるのだが、たいていは「町内一周」と決まる。

 現在は「牛若町」と一本化されているが、子供の頃は三つの牛若町に分かれていた。「本牛若町」、「北牛若町」、そして我が家のある「東牛若町」。だから北区が上京区から分区される昭和30(1955)年までは、住所が「京都市上京区紫竹東牛若町」だったのを記憶している。

 そして、写真地図の青線で示した紫竹南通の一部が我々のメインの遊び場で、「町内一周」と言ったときには、裏側の通りになる本牛若町の紫竹通をまわる黄緑色楕円で囲った範囲となる。駆けっこリレーなども、この一周を走る。カクレン(かくれんぼ)は、ちいさな子も居るときは青線部分、足の速い小学高学年が中心だと「町内一周」だった。

 家の前の道は、当時は舗装されておらず地道で、車もほとんど通らないので、前の道で凧揚げなどして遊んだ。団塊の世代なので子供は多く、同年と前後のの年を含めると、男子だけで6人ほども居たので、道端遊びの仲間には事欠くことがなかった。土の道に穴を掘ってビーダン(ビー玉)遊び、家の軒下のコンクリではメンコ、ほかにもいろいろ工夫して遊んだ。

 うちの家の前に木製のデンシンボ(電柱)があった。ドロッコやカクレンでは重要な陣地となって、ドロッコで捕まるとこのデンシンボに繋がれて、仲間の救出を待つ。カクレンでは鬼が隠れてる子を見つけられて、このデンシンボにタッチされるとアウトで、隠れた側が先にタッチするとセーフだったかな。

 月に一回ほど、近隣のお百姓さんが、大八車に肥タンゴ(肥桶)を積んで汲み取りに来る。牛に牽かせて来て、汲み取り作業中は牛をこのデンシンボに繋いでおく。牛は平気で、べたべたと糞を垂れ流す。そんな日は、道端遊びは中止で、家の中でゲームなどして遊ぶことになる。人糞肥料は貴重な肥料だったから、汲み取り賃は取らずに、逆に葱一把などを置いて行ってくれた。

 紙芝居は、ほぼ毎日やってきて、拍子木を鳴らして子供たちを呼び出す。それを聞くと、親に十円玉をもらって駆けつけて、水飴などを買う。半分に折った割りばしにぐるっと水飴を巻き付けて、それに四つ折りにした色付きの薄い煎餅をちょんと貼り付ける。それを割り箸でぐるぐる捏ねると、透明な水飴に煎餅の色が付いてくる。それを道端で舐めて、当時のガキどもに、衛生意識など皆無だった(笑)

 たまには竿竹ヤやイカケヤ(鋳掛屋))や研ぎヤなどがやってくる。イカケヤは鍋や釜の穴あきなどを直し、研ヤは切れなくなった包丁やハサミを研いでくれる。それぞれが、特徴のある掛け声で、やってきたことを屋内の人に告げる。いずれにせよ、のどかな町内一周の光景であった。

2024年5月5日日曜日

#京都雑記#【19.京における漱石】

京都雑記【19.京における漱石】

 かつて書いた記事で、「虞美人草」の冒頭にある京都の比叡山にのぼるシーンの一節を引用した。

 京都・文学散策【02.夏目漱石 「虞美人草」比叡山】

 ついでに調べてみると、漱石はかれこれ4回京都を訪れている。最初は明治25年(1892)年の夏、大学の学年末試験を終え、親友の正岡子規と2人で夏休みを利用しての旅だった。御池麩屋町の柊屋旅館の宿をとって2日間逗留、3日目には修学院の平八茶屋で川魚料理を楽しんだ後、比叡山に登ったことが日記に記されている。その時の比叡山登山の経験が、「虞美人草」での冒頭記述に生かされたのだろう。

 2度目は明治40年(1892)春で、朝日新聞社への入社を控えた時期だった。最初の新聞小説が「虞美人草」であり、その取材もかねての京都訪問だったのかと思われる。そのときの所感は、随筆「京に着ける夕」に書かれている。といっても、夜に京都の駅に着いて人力車でひたすら北上し、下鴨糺の森にある知人邸宅に宿泊するまでの経緯を、ひたすら京の夜は寒いとぼやきながら書いている。

 3回目は明治42(1909)年の秋、紅葉を見物するため嵐山と高雄を訪れている。中国大陸を訪れた、その帰路に立ち寄ったようだ。

 そして最後の4度目は、亡くなる前年の大正4(1915)年3~4月で一ヵ月近い滞在であった。関西の実業家 加賀正太郎の招待を受けて、大山崎山荘を訪れ滞在した。加賀正太郎は、NHK朝ドラ「マッサン」で、マッサンのウィスキー造りの資金援助をした実業家で、ニッカウイスキー設立資金の大半を出資したという。

 その後の京都滞在は、年少の友人で画家の津田青楓が手配した木屋町の旅館に逗留し、鴨川対岸にある祇園白川の茶屋「大友(だいとも)」の名物女将(おかみ)「磯田多佳女」と交友を持つ。ある日、二人の間に小さな行き違いがあったもようで、漱石は、木屋町の宿から鴨川をへだてた祇園の多佳女に発句を送った。その句碑が、宿があった場所の現在の木屋町御池の歩道脇に設えられている。

 「春の川を隔てて男女哉」
 漱石がどのような趣向でこの句を発したかは図りかねるが、いささか気がかりだった「お多佳さん」だったことには違いない。

 いまでは、鴨川を挟んで対岸を眺めると、若い男女カップルが囁き合っているのが一望できる。まるで電線の雀のように一定の間隔を置いて並び、その距離はおよそ二間(5m)で、小声だとちょうど隣のカップルに聞こえないという絶妙な距離感なのである。木屋町の旅籠の漱石から、対岸遠くの祇園白川「大友」の「お多佳さん」に、当然ながら声は届かない。漱石は発つ前の宿で、そっとこの発句をしたしめたのであろう。

 この漱石最後の京都滞在記は、NHK BSスーパープレミアムで、「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」としてドラマ化された。

----------(あらすじ)----------
 1915(大正4)年、48歳の夏目漱石(豊川悦司)は強度の神経衰弱と胃潰瘍に苦しんでいました。友人の若い画家・津田青楓(林遣都)に京都での静養を勧められ、 3月20日、漱石は木屋町の旅館に投宿します。
 そこで出会ったのが、祇園のお茶屋の若き女将・多佳(宮沢りえ)。芸・才・美貌を兼ね備えた多佳に強く惹かれる漱石でしたが、大阪の実業家や百戦錬磨の老舗旅館の主人など多佳に言い寄るライバルは多く、気をもむばかりです。
 ある日、梅見の約束をすっぽかされて逆上した漱石は、人力車で京都の街を暴走、遂には洋食屋で暴飲暴食し、胃潰瘍を悪化させて寝込んでしまいます(3月24日の日記による)。動揺した津田青楓は何と東京に連絡し、妻の鏡子(秋山菜津子)を呼び寄せてしまい…。果たして漱石先生の“最後の恋”の行方は?

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 なにげにこのTVドラマを眺めていると、なにか見慣れた土塀の前を、人力車に乗った漱石がとおりすぎてゆくシーンが映った。やけくそで人力車で京都の街を暴走する場面なのだが、どうも我が母校紫野高校の正門向かいの、大徳寺高桐院の裏側の瓦土塀であることに間違いがなかった。今宮門前通りを、北の今宮神社楼門から、南の船岡山方面へ駆け抜けていったようだ。




(付記)
 もと祇園の芸妓「おたかさん」といえば、舟橋聖一の小説「花の生涯」のヒロイン「村山たか」も名を残している。大老井伊直弼やその重臣長野主膳と通じ、京の反幕府勢力の情報を江戸に送ったとして、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、尊王攘夷派に捕らえられ三条河原に晒されたという。NHK大河ドラマの「花の生涯」では、「村山たか」を淡島千景が演じた。

 もう一人の「おたかさん」は、伝説の深夜お色気バラエティ「11PM」で、藤本義一がキャスターを務めたときの初代アシスタントとして起用された、もと祇園の芸妓「おタカさん」こと「安藤孝子」、現在はお茶屋「祇園安藤」の女将(おかみ)として、娘の若女将とともに取り仕切っているという。

 まさに時を越えて、祇園の「おたかさん」たちは躍動したのである。