2024年5月5日日曜日

#京都雑記#【19.京における漱石】

京都雑記【19.京における漱石】

 かつて書いた記事で、「虞美人草」の冒頭にある京都の比叡山にのぼるシーンの一節を引用した。

 京都・文学散策【02.夏目漱石 「虞美人草」比叡山】

 ついでに調べてみると、漱石はかれこれ4回京都を訪れている。最初は明治25年(1892)年の夏、大学の学年末試験を終え、親友の正岡子規と2人で夏休みを利用しての旅だった。御池麩屋町の柊屋旅館の宿をとって2日間逗留、3日目には修学院の平八茶屋で川魚料理を楽しんだ後、比叡山に登ったことが日記に記されている。その時の比叡山登山の経験が、「虞美人草」での冒頭記述に行かされたのだろう。

 2度目は明治40年(1892)春で、朝日新聞社への入社を控えた時期だった。最初の新聞小説が「虞美人草」であり、その取材もかねての京都訪問だったのかと思われる。そのときの所感は、随筆「京に着ける夕」に書かれている。といっても、夜に京都の駅に着いて人力車でひたすら北上し、下鴨糺の森にある知人邸宅に宿泊するまでの経緯を、ひたすら京の夜は寒いとぼやきながら書いている。

 3回目は明治42(1909)年の秋、紅葉を見物するため嵐山と高雄を訪れている。中国大陸を訪れた、その帰路に立ち寄ったようだ。

 そして最後の4度目は、亡くなる前年の大正4(1915)年3~4月で一ヵ月近い滞在であった。関西の実業家 加賀正太郎の招待を受けて、大山崎山荘を訪れ滞在した。加賀正太郎は、NHK朝ドラ「マッサン」で、マッサンのウィスキー造りの資金援助をした実業家で、ニッカウイスキー設立資金の大半を出資したという。

 その後の京都滞在は、年少の友人で画家の津田青楓が手配した木屋町の旅館に逗留し、鴨川対岸にある祇園白川の茶屋「大友(だいとも)」の名物女将(おかみ)「磯田多佳女」と交友を持つ。ある日、二人の間に小さな行き違いがあったもようで、漱石は、木屋町の宿から鴨川をへだてた祇園の多佳女に発句を送った。その句碑が、宿があった場所の現在の木屋町御池の歩道脇に設えられている。

 「春の川を隔てて男女哉」
 漱石がどのような趣向でこの句を発したかは図りかねるが、いささか気がかりだった「お多佳さん」だったことには違いない。

 いまでは、鴨川を挟んで対岸を眺めると、若い男女カップルが囁き合っているのが一望できる。まるで電線の雀のように一定の間隔を置いて並び、その距離はおよそ二間(5m)で、小声だとちょうど隣のカップルに聞こえないという絶妙な距離感なのである。木屋町の旅籠の漱石から、対岸遠くの祇園白川「大友」の「お多佳さん」に、当然ながら声は届かない。漱石は発つ前の宿で、そっとこの発句をしたしめたのであろう。

 この漱石最後の京都滞在記は、NHK BSスーパープレミアムで、「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」としてドラマ化された。

----------(あらすじ)----------
 1915(大正4)年、48歳の夏目漱石(豊川悦司)は強度の神経衰弱と胃潰瘍に苦しんでいました。友人の若い画家・津田青楓(林遣都)に京都での静養を勧められ、 3月20日、漱石は木屋町の旅館に投宿します。
 そこで出会ったのが、祇園のお茶屋の若き女将・多佳(宮沢りえ)。芸・才・美貌を兼ね備えた多佳に強く惹かれる漱石でしたが、大阪の実業家や百戦錬磨の老舗旅館の主人など多佳に言い寄るライバルは多く、気をもむばかりです。
 ある日、梅見の約束をすっぽかされて逆上した漱石は、人力車で京都の街を暴走、遂には洋食屋で暴飲暴食し、胃潰瘍を悪化させて寝込んでしまいます(3月24日の日記による)。動揺した津田青楓は何と東京に連絡し、妻の鏡子(秋山菜津子)を呼び寄せてしまい…。果たして漱石先生の“最後の恋”の行方は?

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 なにげにこのTVドラマを眺めていると、なにか見慣れた土塀の前を、人力車に乗った漱石がとおりすぎてゆくシーンが映った。やけくそで人力車で京都の街を暴走する場面なのだが、どうも我が母校紫野高校の正門向かいの、大徳寺高桐院の裏側の瓦土塀であることに間違いがなかった。今宮門前通りを、北の今宮神社楼門から、南の船岡山方面へ駆け抜けていったようだ。




(付記)
 もと祇園の芸妓「おたかさん」といえば、舟橋聖一の小説「花の生涯」のヒロイン「村山たか」も名を残している。大老井伊直弼やその重臣長野主膳と通じ、京の反幕府勢力の情報を江戸に送ったとして、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、尊王攘夷派に捕らえられ三条河原に晒されたという。NHK大河ドラマの「花の生涯」では、「村山たか」を淡島千景が演じた。

 もう一人の「おたかさん」は、伝説の深夜お色気バラエティ「11PM」で、藤本義一がキャスターを務めたときの初代アシスタントとして起用された、もと祇園の芸妓「おタカさん」こと「安藤孝子」、現在はお茶屋「祇園安藤」の女将(おかみ)として、娘の若女将とともに取り仕切っているという。

 まさに時を越えて、祇園の「おたかさん」たちは躍動したのである。