2024年12月29日日曜日

#京都回想記#【43.新しいデパート部長との確執】

京都回想記【43.新しいデパート部長との確執】


 1976(昭51)年の秋に上司のデパート課長が転勤になり、あらたにデパート部長が転任してくることになった。新規に上司となる部長は、同期の中でトップを切って部長昇格ということで、どんなキレ者なのかと期待していた。着任してその下で働いてみると、どうやら人間関係だけでここまで成り上ってきたようだった。何より、本社のデパート部長という超えらいさんに取り入ってのし上がってきたという噂が、我々にも届いてきた。

 




2024年12月26日木曜日

#京都回想記#【42.担当店が変わる】

京都回想記【42.担当店が変わる】


 仕事が順調に進み、他社のセールスとも店頭で会話することも多くなった。担当でうろうろしていても、とりたてすることも無いので雑談を交わすことが多い。K社の担当が課長代理というベテランに変わったが、その課長代理と両者のコーナー前での立ち話では、この売り場はおたくとうちで成り立ってるようなもんですな、と彼がいうぐらいで、店の担当主任の影が薄くなるほどメーカーサイドで仕切ることが多かった。

 1975(昭50)年の秋のキャンペーンの時期になると、2年後輩が入社してデパート課に配属されてきた。新規セールスマンをトップ百貨店を担当させて鍛えるという方針で、彼がD百貨店担当になり、私は中堅デパート2店の担当に変わった。京都駅前のM百貨店と、四条寺町のF百貨店で、M店は老舗でゆったりとしたスペースがあるが、駅の乗降客を動員できないで売上げ不振に悩んでいた。F店は店舗規模が小さくて五十貨店と自称し、ファッション衣料品に特化していた。

 売り上げが小さめの2店舗担当となったが、M店が主で、F店はあまり商談も少なめなので、美容部員任せができた。M店は老舗であっても集客力が弱いので、店側の担当従業員も出入り業者に対して腰が低く、フランクに対応してくれて居心地がよかった。M店は会社からも歩いて行ける距離だったので、会社が居心地の悪いときには息抜きに行けるぐらい気楽な場所だった。


 担当店が変わった翌年1976(昭51)年の春のキャンペーンは「恋のミルキーオレンジ」というタイトルで、CMソングはピンポンパン体操という幼児番組で使われた、りりィの「オレンジ村から春へ」だった。化粧品売り場にはイベントスペースがあって、そこで各メーカーが交代でデモンストレーションを行うことになっていた。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ
https://www.uta-net.com/movie/333205/4R83CE_0kfU/

 あるとき通勤の帰りのバスで、高校時代の同級生とであった。彼は京都の工業系国立大学を卒業したにもかかわらず、脱サラで花の仕入れ販売をやっているという。そこでバスの中で、花を売り出しの企画に使う相談がまとまって、資生堂のデモ期間中は、彼が持ち込んだ鉢植えの花でコーナーを一ぱいにした。それを化粧品の買い上げの景品としたので、結構な売り上げになった。

 秋のキャンペインは、シンガーソングライター小椋佳の「揺れるまなざし」がタイアップソングとなり、すぐにレコードもヒットした。この時も、M百貨店店頭でキャンペーンデモをやったのだが、売り場にはビデオが流せる装置があって、CMビデオなどを流していた。ところが、たまたまNHKで小椋佳の特別番組を放送したのを、美容部員の一人が録画してきて、そのビデオ装置で流したらしい。

'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳

 店側に、客側に向けて番組ビデオを流したことが著作権法に違反する、との匿名のチクリ手紙が届いた。美容部員はよかれと思って流したのだろうが、私の知らない時のことなので、仕方なしに上司のデパート部長と二人で、NHK京都支社に謝りに行った。先方は「〇〇担当主査」などといった名刺を出したが、一般企業の役職と違う名称を使っているので、どれぐらい偉いのかも分からず、とりあえず二人で頭を下げて帰った。

2024年12月25日水曜日

#京都回想記#【41.新米セールスにも、やっと春が】

京都回想記【41.新米セールスにも、やっと春が】


 年が変わって1974(昭49)年になっても、状況は改善しなかった。さらに百貨店側の売り場改装計画が告げられ、これまで化粧品売り場は一階の入り口に近い一等地にあったのだが、改装ではより奥になってしまう計画であった。それ自体はわれわれ業者側からとやかく言えないので、移動後の化粧品売り場で、少しでもましな場所取りをするしかなかった。

 結局、改装オープンしたのは10月ぐらいだった。売り場はきれいになったが、奥まった分、客足は少なくなった。そして私の仕事も、一向に改善の兆しは見えなかった。沈んだ気分が続いて鬱が再発しそうになり、不安神経症から店に入れなくなって、裏の公園で缶ビールを飲んで誤魔化したりしていた。

 状況が一気に好転したのは、翌、1975(昭50)年の春のキャンペーンの時期だった。キャンペーンのタイトルは「彼女はフレッシュジュース」というもので、口紅にオレンジカラーを訴求しているが、コピーとしては陳腐に感じた。しかしリリィの歌うCMソングは、私にとっては、やっと春が来たという心情を思い起こさせるものとなった。

 状況が変化した要因は、なによりもチーフを変えてもらったことだろう。それまでのチーフを「ビューティコンサルタント」として名目上格上げして、他の店のサブチーフをしていた一歳若い美容部員を「チーフ」に抜擢した。元チーフも同じ売り場の仕事だから、新チーフの彼女にはやりずらかっただろうが、キリっと売り場を仕切って、こちらの指示もその意図をくみ取ってきちんと進めてくれた。

 「彼女はフレッシュジュース」のCMソングは、CMの一節しか流されなかったが、CM放映後、問い合わせが殺到したため、あらためて「春早朝」としてレコード化された。その後、化粧品などの「CMソング」は、企画段階からレコード化を前提として「イメージソング」として発表されるようになった。以後、毎年のようにCM曲からヒット曲が生まれるようになった。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ
'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳
'77年春 「マイピュアレディ」/尾崎亜美
'77年夏 「サクセス、サクセス」/宇崎竜童&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
'78年夏 「時間よ止まれ」/矢沢永吉
'78年秋 「君の瞳は10000ボルト」/堀内孝雄
'78年冬 「夢一夜」/南こうせつ
'79年夏 「燃えろいい女」/ツイスト
'79年秋 「微笑の法則」/柳ジョージ&レイニーウッド

 当時、資生堂の宣伝広告費が100億円前後、レコード業界全体のの宣伝広告費がほぼ同じの100億円前後で、つまり、全レコード会社の宣伝広告費が資生堂一社の宣伝広告費に及ばないというわけだから、タイアップ企画の曲がヒットするのは間違いなかった。だがしかし、オイルショックの後には高度成長は終局を迎え、CMのヒットは、一向に化粧品の売り上げに寄与することはなかった(笑)




2024年12月23日月曜日

#京都回想記#【40.やっと営業に出たけれど】

京都回想記【40.やっと営業に出たけれど】


 1948(昭73)年8月21日から、資生堂では秋のキャンペーンが始まった。この年は「影も形も明るくなりましたね。目」というタイトルで展開された。春のキャンペインはリップスティック、秋はアイメイキャップとほぼ決まっていた。ちょうどこの時点で、営業部に配属されセールスマンとなった。

CF「図書館」杉山登志

 セールスマンといっても、あちこち飛び込み営業するわけではなく、販売契約を結んでいるチェーンストアを巡回する、いわゆるルートセールスである。ただし自分は百貨店を担当するデパート課に配属されたので、京都で売り上げトップだったD百貨店の担当になった。チェーン店なら20店ぐらい担当するのだが、大型百貨店なのでたった一店の専属担当みたいになった。

 売り場の資生堂コーナーは柱巻き一区画があてがわれ、接客は資生堂が派遣する美容部員でまかなわれる。チームは10名ほどの美容部員で構成され、そのリーダーはベテラン美容部員でチーフと呼んでいた。それを率いるのが担当セールスということになるが、直接化粧品の接客販売にはたずさわれないので、店側との折衝などもっぱら後方支援の裏方仕事となる。

 当時の化粧品売り場は、一階の奥まったスペースをしめていて、売り場には男性客は皆無で、店側の売り場主任や各メーカーのセールスマンぐらいなので、慣れるまではいづらかった。若い女子ばかりの華やかな職場と思われるが、実際に働くとなるとかなりシビアな世界だった。美容部員たちが働きやすい環境を作るのがセールスマンの仕事だが、こちらは営業に出たばかりで、さっぱり要領が分からない。

 美容部員たちは、担当セールスマンの仕事ぶりはシビアに見つめている。とりわけチーフ美容部員との連携は重要で、彼女との相性が悪いとチームの統率が取れなくなる。セールスに出たところで、店側の担当主任やレジ担当の社員などともコミュニケーションがとれず、起こるトラブルの対処にも慣れていない。それがチーフには耐えがたかったようで、こちらの意向はまったく伝わらない。

 担当セールスの方が指揮ラインでは上位のはずだが、こちらが美容部員に代わって接客販売するわけには行かないので、チームの指揮権は事実上はチーフが握っている。そのチーフとのコミュニケーションが取れないので、こちらの仕事がまったくうまく行かなかった。中堅以下の美容部員は、個別には愛想よく対応してくれるのだが、チーフの目が届くところでは、まったくそっぽを向くのだった。

 そうしているうち年末にかけて、第一次オイルショックが襲って来た。ティッシュの買いだめ騒動だけではなく、化粧品も品切れを起こし、店頭に並べる化粧品も無くなった。もはや売り上げノルマ達成どころではなくなってしまった。品切れ商品をなんとか調達してくる要領も得ず、新米セールスマンは右往左往するばかりだった。

#京都回想記#【39.やっと卒業、社会人となる】

京都回想記【39.やっと卒業、社会人となる】


 何やかやとありながら、やっと大学を卒業することになった。留年したため同期卒業生に知り合いもいないので、卒業式には出なかった。卒業証書は後輩に頼んで、ゼミの研究室に放り込んでおいてもらった。就職先は化粧品の資生堂に決まっていた。5年生になった4月ごろには大手の採用はほとんど決まるのだが、自分は今回も就職活動はスルーしたままでいた。一般の会社には入りたくないので、マスコミや広告代理店は採用試験が5月ごろになるので、それまで待っていたわけだ。

 しかし、それらは競争が激しく、ほとんどが一次のペーパーテストで落とされた。一般の企業はほぼ内定済みだったので、また新保教授に頼みに行った。新保先生は手元に来ていた求人をいくつか示してくれた。多くが製造業大手だったが、唯一、消費者と接点がありそうな会社が資生堂だった。そんなわけで、資生堂の面接を受けて内定をもらっていた。

 いくつか面接を受けた会社では、必ず留年した理由を訊かれる。体育会系の部活などに打ち込んで留年したとかいえば、むしろプラス評価になるのだが、自分は、下宿でごろごろ寝てましたと答えて、ほぼ落とされた。しかし資生堂の面接では、どんな仕事をするか考えてますかと問われて、営業職だと思うが、具体的にはどんな仕事になるんですか、と質問を返したら、その面接官は丁寧に説明してくれて、それだけで面接時間が終わり、留年理由は訊かれなかった。それが内定をもらえた理由だと思っている(笑)

 1948(昭48)年4月に資生堂に入社。それまで資生堂という会社は、テレビCMなどで見るだけで関心を持っていなかったが、いざ入社が決まってみると、華やかで女性も多い楽し気な会社だと思うようになった。配属は京都支社(販売会社と呼ばれていた)となって、いざ入社式に臨んだ。兄が就職祝いに作ってくれたスーツを身にまとい、資生堂の男性化粧品MG5でしっかり整髪して、入社式会場への階段を上っていると、ベテラン美容部員たちの数人のグループとすれ違った。

 すれ違いざまに、そのうちの誰かが「クッサ」とつぶやいたのが耳に入った。よく知らなかったがMG5はすでに低価格帯の商品で、新入社員が安物で出社してきたな、というベテラン美容部員のさっそくの洗礼だったわけだ。その入社式の帰り道、化粧品店に飛び込んで、さっそくワンランク上のシリーズ「MG5ギャラック」を買うことにした。

 資生堂は全国に販売会社があるので、どこに配属されるか分からないのだが、運よく京都支社に配属されたので、自宅から通勤できる。入社から半年は商品課に配属される。商品倉庫で出荷作業にたずさわりながら、数千点もある化粧品を憶えるためだという。ワゴン台車を押して、商品棚から口紅など幾つも品番のある小物をピックアップする。退屈な仕事だが、半年のことだと思って我慢した。

 一日の出荷作業が終わると、毎日全員で棚卸を行う。伝票上と実在庫が合わないときには、全員で棚の下などに落ちていないか探す。たとえ千円の口紅一本でも、商品課員、残業になっても探す。どう考えても非合理的だと感じて、商品部長に言うと、それは信用のためのコストだという。毎日、化粧品店に商品を配送するが、店頭で検品する手間を省いて、店にも信用して了解してもらってるからだそうだ。毎年、大卒の新入社員が入ってくると、必ずそういう文句を言ってくるよ、と、商品部長は笑った。

2024年12月20日金曜日

#京都回想記#【38.学生生活は5年目に】

京都回想記【38.学生生活は5年目に】


 留年が確定して大学5年生となった。さすがに親の負担も減らさねばならないので、神戸の下宿は引き揚げて、実家から学校に通うことになった。阪急電車で十三乗り換え、片道2時間の通学時間になるが、取り残した卒業単位の半年分を一年を通して取ればいいので、通学する日にちも少なくて済む。その分バイトに費やして、親の負担を減らそうと考えた。実際、両親に負担してもらっていたのは、おもに下宿代と生活費であって、学費そのものは年間12000円、月当たり1000円と言う時代だった。

 卒論は通っていたのでゼミ演習には出なくても良いのだが、議論は楽しいので新保先生に頼んでオブザーバーとして参加させてもらった。取り残した卒業単位は、ほとんど文学部でとることにした。ディスカッション形式の演習講座は、好きなことを言えるので通常の講義より楽しいのだが、文学部での講座数は少なかった。そんななかで、国文学演習という講座を受講した。

 このことは前に書いたのだが、担当は谷崎や三島を専門に研究している教官で、私の担当発表する回では、谷崎の初期作品を取り上げ徹底批判した。ふと気が付くと、並びの席の女子学生が熱心に注目していたようだった。帰り際に声をかけてみた。聞いてみると、阪神間にあるKg大学をすでに卒業していて、文学に興味が尽きないので、神大文学部の講義に潜り込んでいるのだという。

 そんなわけで、あらためてデートすることになった。鬱からの回復期に放浪した奈良の西ノ京のひなびてのどかな街を、ともに歩いた。道の真ん中に大木があって、そのわきに小さなお堂が建っていた。特に何かに使われている気配もなく、中はがらんどうだった。そこで自然の成り行きのように口づけをした。ちぃとロマンチックなシーンではあったw

 けっこう積極的に、彼女をあちこち連れまわした。神戸の繁華街をうろついたあと、夕方になって大学のキャンパスに上った。キャンパスは六甲山の中腹にあるので、芝生に寝転んで神戸の百万ドルの夜景が眺められる。彼女は口づけまでは許したが、それ以上は毅然として拒否した。良家の身持ちの固いお嬢さんというとこか。

 留年してのこの5年生の時が、もっとも大学生活を楽しんだのかもしれない。夏休みになると、さっそく京都でバイト先を見つけた。女性下着を主とする衣料品を扱う大手アパレルの倉庫作業だったが、高校の仲間たちも多く集まって、なかなか楽しく作業をした。ここでも、事務の女子と仲良くなって、しばらく付き合った。

 夏休みが終わって5年時の後期が始ったが、卒業に必要な単位はほぼ取得したので、最終学期はほとんど京都でバイト三昧となった。広告の屋外看板などを設置する広告企画会社で、出張取り付けなどであちこちに出張するので、屋内作業でなくて楽しい。滋賀県の琵琶湖に沿った湿地帯に突如出現した、雄琴風俗ヘルス街などにも出張作業があった。

 建設中の「トルコ大阪城」の窓から、体を乗り出して飾り金具を取り付けていると、道を挟んですぐ向かいには「ヘルス江戸城」があったりした(笑) あるいは、京阪三条にあった高級キャバレー「ベラミ」の作業もあった。屋根裏に上がって「美空ひばりショー」の懸垂幕を垂れ下げる作業だったが、うっかり屋根瓦を踏み割ってしまった。

 表から見れば、壁飾りなどで覆われて気が付かないが、なんと木造3階建ての瓦屋根だった。しまったと思ったが、知らんふりして過ごした。美空ひばりショーの最中に雨漏りなどしたらえらいことだw このベラミは、その後、山口組三代目田岡組長の狙撃事件があった場所だ。田岡組長はひばりの後見人的立場で、そんな縁で京都に来た時には必ずベラミに立ち寄ったとされ、それで狙われたらしかった。

2024年12月19日木曜日

#京都回想記#【37.オバカなことで留年決定】

京都回想記【37.オバカなことで留年決定】


 卒業論文も無事に合格となって、4年の後期の試験を残すだけになった。卒業しても就職が億劫で、かといってこれと言って特別に進みたい道があるわけではなかった。そんな感じで4年生を過していたので、最終期には多くの必要単位を残したままだった。最終学期に登録した科目の試験に、その多くを単位取得する必要があったが、まあ何とかなるだろうと考えていて、それで留年してもそれはそれでいいかもという状況だった。

 登録していた講義の中には、まったく興味が無く、授業にも一度も出てない科目もあった。それでも、試験かレポートに通れば単位をくれる。そんななかで、試験の課題を事前に公表する教官も多かった。そうやって単位を取らせようという思いやりなのかもしれないが、そんな学生を甘やかす教官の姿勢を、けしからんと思って私自身は嫌悪していた。

 事前に設問を公表するといっても、通常は3問程度黒板に書いて、ここから1問だけを当日に提示するというパターンだった。ところが私が一度も出ていない講座では、たった1問だけ示して、それを当日の問題とするという教官があった。さっそく下宿先の後輩からは、その模範解答がまわってきた。それを数分間読んで、それを答案用紙に書けば単位になるというバカな話で、学生をバカにしてるというような義憤さえ持った。

 まあ卒業単位にゆとりが無いから、取れるもんなら予備に取っておいてもいいかなと思った。ただ、憶えて行って試験場で書くということさえウザく思ったので、別の試験のときに大学のロゴの入った用紙を予備に取っておいて、事前に下宿で書き写したものを、当日の試験教室で提出しといた。

 試験結果の合否は、正門脇の掲示板に学籍番号だけ張り出される。登校した時にそれを見ると、合否とは別に、下記の学生は教務に出頭せよとかかれていた。当然思い当る節はあるので、あれまと思った。指定された日時に教務に行くと、教務担当の教授が個別に面接していて、あなたは試験当日にこの答案を書きましたか、と丁重に訊ねてきた。

 あっさり観念して事情を話たあと、ところで何で分かったんですかと訊ねると、こういうことがありそうだという意見があったので、当日の答案用紙だけは千枚通しで穴をあけておいたということで、なんともバカバカしい話だった。売春のおとり捜査みたいなもんですなと、面接の教授といっしょに笑った。

 不正行為の処置は教授会で、当期の試験はすべて無効とすると決定された。かくして、オバカなことで留年が決定した。自分自身はたいしてショックも受けず、多少はほっとした部分もあった。ただ、帰省して親にそれを告げるのは、さすがにつらかったし、兄にも叱責された。内定を取っていた石油会社にも電話したが、ハイそうですか、だけで終わった。

2024年12月18日水曜日

#京都回想記#【36.ぐだぐだ卒論執筆記】

京都回想記【36.ぐだぐだ卒論執筆記】


 4年生になり就職の内定も取れたが、将来どの方向に進むか一向に定まらずのままだった。文学にははまり込んでいるが、とことんこの道で進んでいくかは、自分の才能に自信がもてず、しかもこのまま文学の深みに入り込んでいくのには、ある種の恐さを感じていた。

 ゼミでは、卒論のテーマを決めて、それに沿って研究発表するという段階に来ていた。担当教官の新保教授の専門は日本経済史だったが、通常の歴史的時代的考察ではなく、計量経済的な統計数学的手法を使って分析するという新しい取り組みだった。

 近代経済学自体が、このような数学的な処理を多用する特徴があるのだが、私自身はすでに数学を投げており、専門的な経済と取り組むのはあきらめていた。そこで卒論ではいっさい数学を使わないで済ませるテーマを選んだ。新保教授の方針は、経済に関係すれば何でもよいという、きわめて寛大なものであった。

 自分は西陣近辺で育ち、両親も賃織(ちんばた)という織物職人だった。西陣の織物業界は、不思議にもいまだ「問屋制手工業」で成り立っていた。親方(織元)が唯一の資本家で、帯の材料から織物図案の作成企画まで引き受けて、それを織家(おりや)で作業する織物職人に委託して織り上げさせる。しかも、その販売も織元の責任で行う。

 この問屋制家内工業で成り立っている西陣の経済的歴史的要因を、解明しようと考えた。これはなかなかユニークなテーマであるし、新保先生も面白いと言ってくれたので、はりきって取り組み始めた。しかし、モデルとする先行的研究はほとんどなく、西陣織の経済的統計データも、あちこちに散在するばかりだった。

 これは、たかだか経済学の初心者が取り組むのはとても無理と思い当って、あっさりとあきらめた。この当時、西欧以外に、アジア地域などで資本主義的経済が近代化に成功しているのは日本だけだった。そこで、なぜ日本だけが資本主義のテイクオフに成功しているのか、その原因を追究したいと思った。

 資本主義的近代化の要因を、文化的思想的な方面から研究した事例は、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、いわゆる「プロ倫」と呼ばれるものが有名で、しかもかなり短い論文だったので、これはタネ本に最適だと飛びついた。

 それを日本経済に援用した研究に『日本近代化と宗教倫理/日本近世宗教論』(RNベラー)があると新保教授から紹介され、それを元に卒論と取り組むことになった。ベラーの書は、プロ倫でのプロテスタンティズムに相当するものを、江戸時代の仏教宗派や道徳思想のなかで探すというもので、浄土真宗などを当たったが必ずしも一致せず、最終的に「石門心学」に相当性をもとめた。

 しかし、西欧のキリスト教一神教における文化的収斂性と、一般庶民の道徳として説かれた心学では、その浸透性や普及度がまったく異なると考えて、卒論でもベラーを批判する論調となった。ということで、タネ本としても使えず、卒論は支離滅裂な論調となってしまった。

 そんなわけで、卒論提出期限が迫っても、いたずらに文学書に読みふける日々だった。いよいよ取りまとめねばならないと思い出したころに、ひどい風邪で寝込んでしまった。卒論の必要枚数は原稿用紙100枚と言うことだったが、そんな長い論文など書いたことが無いので、ひたすら思いつくことをランダムに書き連ねて、枚数をうめることだけだった。

 それでも足りない部分は、どうでもよいようなグラフや統計データを切り貼りして、やっとこさ100枚ちょうどに仕上げた。期限ぎりぎりに提出に行ったが。教務に表紙と目次を付けてくれと言われ、せっかくちょうどに仕上げた100枚をオーバーすることになった。ぐだぐだの卒論執筆記である(笑)

2024年12月17日火曜日

#京都回想記#【35.いつのまにか4年生】

京都回想記【35.いつのまにか4年生】


 ほとんど下宿部屋で、夜昼逆転したような生活を送っていた。本を読んだり夜食をつまんだり、そうこうしているうちに夜が明けそうになり、始発電車がガタゴト動き出す音を聞きながら眠りに落ちる。週に一回だけのゼミの演習だけは楽しいので、寝る時間を少しずつずらせて、ゼミの日には昼間に起きて出席することにしていた。

 いつの間にやら一年が過ぎて、4年生になってしまった。当時は高度成長期の余波で、まだまだ企業は大量に新卒大学生を採用していた時期で、ほとんど就職の心配は要らなかった。青田刈りといって、企業は出来るだけ早く優秀な学生を採用していたので、4年生の4月にはすでに就職活動が始まっていた。

 私は就職にもあまり気乗りがせず、しばらく就職活動をしなかったが、周囲がほとんど内定を取ってたので、しかたなくゼミ教官の新保先生に、適当なところが残ってないかと尋ねに行った。横着なゼミ生にもかかわらず、先生は手元に来ている求人会社をニ三紹介してくれた。ほぼ名前を聞き知っている大手会社ばかりだったが、国内資本の某石油会社の面接を受けることになった。

 東京本社で面接を受けて、すぐに内定をもらった。そのうち夏休みになると、ドカッと創業者の自伝などの著作を送ってきて、読んでおけという。噂には聞いていたが、英雄的な伝説をもつ創業者は、一方で有名な国粋主義者だった。つい先日まで米帝日帝打倒などと叫んでいた世界からは、正反対の世界に接して戸惑うばかりで、そのまま就職する気には成れなかった。

 うちの大学の学生、とくに経済や経営学部の学生は、研究者や高級官僚を目指すわけではなく、はなから大手企業に就職するつもりのものがほとんどだ。そういう意味では、毛色の変わったユニークな学生はほとんどいなくて、一流半の面白みのない学生が多かった。前身の旧神戸高商の時代から、「番頭さん養成学校」などと呼ばれ、もっぱら実業志向だった。ちょうどこの時期は、銀行や商社が人気だった。関西系の大手商社なら、京大・阪大・神大とそれぞれ数十人の採用枠が定められているとされ、先着順でほぼ内定が取れた。

 当時の成績の評定は優・良・可・不可ときわめて大雑把で、不可以外は単位が取得できた。真面目に講義に出てきっちりノートを取ってる同級生がいて、期末試験のある科目で、答案がうまく書けず、良になりそうなので提出しなかったという。彼は三井・三菱という関東系の最大手を目指していて、さすがにそのレベルだと、優をそろえないと難しいらしい。私は卒業必要最小単位さえ取れたらいいので、もったいないなあ、代わりに答案にワシの名前を書いて出してくれたらいいのに、というような笑い話をしたもんだ。

2024年12月16日月曜日

#京都回想記#【34.大学3年生になって】

京都回想記【34.大学3年生になって】


 1969(昭44)年12月から、神戸で二度目の下宿を始めた。今度は東灘区の国鉄(JR)摂津元町駅前で、便利と言えば便利な場所だった。通学には国鉄より阪急線が便利で、北の方へ上ると阪急岡本駅があった。そこから二駅で阪急六甲に行ける。岡本駅周辺はかなり山手で道が狭くなっているが、センスの良いベーカリーやカフェなど、洒落た店が並んでいた。

 下宿先は元肛門科の医院の木造二階建てで、肛門科の看板がそのまま掲げられていた。院長の医師が亡くなって、未亡人が子供たちを育てながら、下宿を切り盛りしていた。下宿部屋は一階に入院用の部屋が3つ、別に元診療室の板間があって、ここはかなり広く水回りもあったので、自分はこの部屋を選んだ。

 板間の部分にホームコタツを置いて、冬の間中、コタツに潜り込んで過ごした。週に数回、大学に行くが、それ以外はほぼ部屋に籠って、文学書に読みふけっていた。あまり寒いので、一週間ばかり、インスタントラーメンなど啜って生活し、食料も尽きたので買い出しに外に出たところ、駅前は何と桜が満開でみごとに春になっていた。まるで冬眠から覚めたクマの気持ちだった。

 小説など文学書を読みふけり、生涯でいちばん読書した時期かもしれない。経済学部に上がっても学部の講義は退屈なのがほとんどで、唯一、卒論ゼミの演習で議論するのだけが楽しかった。とはいえ、発言するのはほぼ私だけで、担当教官と議論や雑談を交わすことが多かった。担当教官の新保教授は、経済学の研究だけでなく、クラシック音楽や文学にも詳しく、洒落た教養人だった。

 経済学部では、経済や経営の必修科目が数単位指定されているだけで、それ以外は自由選択科目とされていたので、文学部などに遠征して単位を取った。さすがに転籍までは考えなかったが、男ばかりの経済学部の授業より、女子も多くはなやかな文学部に通う方が多いぐらいだった。しかも文学に関しては、それなりの意見を持つようになっていた。

 文学部にも、演習形式の討論ができる授業があって、こちらは面白かった。国文学演習という講座で、谷崎や三島が好きな教官の授業に出た。出席者が回り持ちでレジュメを作って発表し、それに対して議論するという演習形式だった。私の担当の回では、谷崎の初期の「悪魔的」短編と言われるものを取り上げ、それを批評した。

 ヒロインを女王の位置にまでまつり上げ、自身はそこに跪拝するという典型的なマゾ構図で、その後も谷崎作品で何度も繰り返される。それ自体はいいのだが、その絵描き方がひたすら官能に酔うという直接的な描き方なので、その性的資質を持つもの以外は、それに入り込めない。つまり客観描写が欠落しているという点を指摘して、議論の中でもとことん否定するという立場を取った。

 議論が終わり担当教官が講評するのだが、谷崎ファンの教官は「たしかに君の言うとおりだが、さすがにそこまで言わなくても・・・」と脱力感想を述べた。そんな風に文学部に遠征して多くの単位を取ることになった。一種の道場破り的な楽しみもあったわけだ。

2024年12月14日土曜日

#京都回想記#【33.再び神戸に下宿する】

京都回想記【33.再び神戸に下宿する】


 1969(昭44)年8月に授業が始まり、紛争の影響で、短縮されて3ヵ月ほどで二年生の前期が終わった。一般に二年間のところが多いが、神戸大では一年半で教養課程を終えることになっていた。変則で11月ごろから後期が始まったが、専門課程の経済学部の講義に臨むことになる。教養部で留年を予定していた私も、紛争のどさくさで進級してしまったのである。

 張り切って経済学部に入学したものの、教養課程でのあまり意味のないカリキュラムや、大学封鎖で一年近く授業が無かったりして、すっかり意欲を無くしていた。本格的な経済学部の授業では、やはり「経済原論」が面白かった。前半後半に分かれた通年講義であったが、やはり近代経済学の理論を取りまとめたもので、初めて、経済学の一端にふれた気がした。原論の講義だけは熱心にノートを取り、今も残してある。

 再び神戸での生活が始めたが、それは学業の関係だけではない。京都でのO子との関係が、完全に途切れたと思ったからでもあった。京都でそれなりに充実した生活を送っていたが、鬱から完全に脱出した夏ごろからは、O子にもアプローチしていた。彼女の自宅を訪れ、近くの商店街の夜店の道に連れ出すことにも成功した。

 出店の白熱電灯のもとで、二人で歩道を歩きながら話したが、なかなか話がはずまなかった。うつむきながら小声でこたえるだけで、一向に打ち解けてくれる気配も無かった。彼女に、何考えてるのか分からない気がすると問ってみると、「何も考えてないかららよ」とボソっと返事して軽く笑った。

 取り付くしまもないまま、夜道のデートは終わった。その後も彼女宅を訪れて、家の裏手にある小公園に連れ出したが、二人乗りの座式ブランコに乗りながらも、もはやどうにもならない感じだった。この時点で、完全に彼女に拒否されてるのを感じた。そろそろ大学の専門課程にも進んだので、神戸に下宿することを考え出したころだった。

 その頃に、思いがけず彼女からの手紙が届いた。彼女からすれば、私へのお別れのメッセージなのだろう。夜店を歩いた時のことで「あの時の種明かしししましょうか。実はあのとき貴方に甘えたかったんですよ」と書かれてあった。「なのに貴方は自分のことが精いっぱいで、それに気づいてくれなかった」と、何とも思わせぶりなことがしたためられていた。

 頭をガーンと打たれた気分になったが、もはや遅かった。だが、あきらめきれない自分は、もう一度だけ会いたいと思った。待ち合わせの場所と時間を記して、一方的に手紙を送った。場所は、荒神橋のジャズ喫茶「しぁんくれーる」にした。ここなら、ひとりポツンと待っていても怪しまれない場所だから。結局、2時間以上も待ったが、とうとう彼女は現れなかった。