2021年7月31日土曜日

#京都回想記#【16.町内子供会】

京都回想記【16.町内子供会】


 町内会の組織の中に、さらに子供会と青年会があった。子供会の早朝ランニングでは、後ろには青年会メンバーが交代で付き添う、先頭で率いているのがボランティアでリーダーをつとめるTさん。広くもない自宅の一室を、マンガ本など集めて子供図書室として解放し、年の暮れには青年会のメンバーと自宅前で餅つき大会とか、この人なしでは青年会も子供会も成立たないような状態だった。

 手元には市立岡崎動物園での集合写真なども残ってるが、写っている顔ぶれを見ると、青年会と子供会のメンバーだけで、大人の顔は見えない。おそらく青年会と子供会の共同リクレーションだったと思われる。兄が青年会メンバーだったので、兄と私がいっしょに参加している珍しい写真でもある。

 家族単位での公的な町内会組織は、「向かい三軒両隣り」の6家庭ぐらいが「組」となって、全部で5組ぐらいまであった。各組の組長は持ち回りで、その組長が集まった会合で、町会長ほか役員が選ばれる建前だが、誰も進んで引き受けるものはなく、実質は持ち回りだった。それに比べて、青年会・子供会は自主的な組織で、リーダーはTさん一人しか成り手がなかった。

 あるとき、Tさんが自宅の石油ボイラーを修理していている最中に突然爆発し、顔面を中心に大火傷をしたという話が伝わってきた。さいわい無事回復されたが、事故以降、人が変わったかのように、子供会・青年会の世話から手を引くようになって、実質的に解散ということになった。本人の気力の衰えもあるだろうし、開放した自宅に子供たちが勝手に上りこんできたりする状況は、奥さんにとってはかなりの負担でもあったであろう。

 このような地域に密着した子供会活動が必要なのかどうかは分らないし、町内会さえ成立ちにくい今では、実質上不可能な状況になっているに違いない。しかしそれを経験した私たちにとっては、貴重な経験であり、楽しい思い出を残したことは間違いない。

2021年7月30日金曜日

#京都回想記#【15.正月の遊び】

京都回想記【15.正月の遊び】


 「盆と正月」と並べ言われるように、年間ではこの二つが家庭の大きな行事だ。そして子供たちにとっても、これらに秋の祭礼を加えたものが、待ち遠しい楽しみであった。ここでは正月の過し方を振り返ってみよう。

 お正月の外遊びというと、凧揚げ、羽根突き、駒まわしなど一通りやったものだが、どちらかと言うと家の中で遊んで過すのが好きだった。普段は朝から晩まで「機織り(ハタオリ)」ばかりしている両親なので、正月ばかりはゆっくり遊び相手になってほしいという気持が強かった。

 すごろく、福わらい、折り紙、カルタ取りなど、相手さえしてもらえれば何でもよかった。両親とも尋常小学校卒という学歴なので、ひらがなに僅かの漢字が読み書きできる程度で、百人一首などを憶えて遊ぶ素養は全くない家庭だった。近所の家庭に混じってやらせてもらい、やっと山辺赤人の次の一首だけ憶えた。

《田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ》

 私がせびってでもやって欲しかったのは花札だった。花札にもいくつか遊びがあるが、二人対面でやる「コイコイ」は高校生ぐらいになってから憶えた。これはこれで、テンポのある激しい格闘技みたいなルールだが、子供の頃の家庭では、もっぱら三人でやる「花合わせ」だった。手札と場札の絵柄を合わせ取って得点を争うというシンプルだが優雅なゲームで、かなり気に入っていた。掘り炬燵に足をつっこみ、盆に盛った蜜柑をむきながら、両親や祖父母と花合わせをするのが至福の時であった。

 小学校に上がる前に、正月のプレゼントとして「相撲カルタ」というのを買ってもらった。子供のころ、相撲が大好きで、近所にテレビが入りだすと、相撲中継が始まる前から押しかけて観せてもらうことが日課になっていた。先方はさぞや迷惑なことだったろうが、それが先にテレビジョンを買えたという、"ノブレス・オブリージュ"だというわけだ。

 相撲カルタで今でも憶えている一枚がある。それは「ぬ」の札で「ぬっと大起(おおだち)四十八貫」というもの。大起は当時の幕内最重量力士で、尺貫法だったので1貫=3.8kgで概算すると180kgぐらいだろうか。今は200kgを越える外国力士がザラだが、当時は、この大起が暗がりから「ぬっと」現れたらぎょっとしたに違いない。

 ついでに尺貫法関連で述べると、昭和33年にメートル法に切り替えられ、それまでの尺貫法は禁止された。帯の織物業なので、仕事で使う寸法はすべて尺差し(クジラ差し)の単位になる。しかしその尺差しの販売も禁止されたため、ヤミで数倍になった高い物差しを買わざるをえなくなったりした。

 「尋常小学校一週間中退」の祖母ともなると、もはや単位の換算は不可能。祖母が買い物に行くのに付いていくとき、肉屋ではいつも、家族分で「百匁(め/もんめ)」と言って買うことになっていた。百匁はおよそ400グラムといえばよいと教わっても、それが憶えられないでいた。さて肉屋に入ってどう言うのかと興味津々ながめていたら、「この肉、500円分おくれやす」だとさ。さすが生活の智慧。

 一方の祖父も、たまたま新聞を逆さにして眺めているので、何してるか訊くと「新聞を読んでる」という。逆さじゃないかというと「字の数をよんでる」とこたえた。祖父母ともひと文字も読めない文盲であったが、それでもちゃんと生活できた時代であった。

2021年7月29日木曜日

#京都回想記#【14.町内会リクレーション】

京都回想記【14.町内会リクレーション】


 このころは町内会の活動も活発だった。春秋にはハイキング、夏場には渓流の川床ですき焼き、そして海水浴といろいろあった。写真は琵琶湖の舞子浜だが、この時期は大阪湾の甲子園浜や香枦園浜とかにも砂浜があって、水もきれいだった。

 親に連れられての旅行など考えられず、日帰りの行楽もなし、せいぜい一年に一度ほど、百貨店に連れて行ってもらう程度だった。つまり遠出した経験は、ほとんど学校の遠足か町内会のリクレーションばかりだった。それだけに、楽しい思い出がこもっている。

 秋のお祭りとともに、楽しみだった行事は地蔵盆。八月の十五、十六日に、「横手」という路地入口にあるお地蔵さんの前で行われる。通常の地蔵盆は8月23・24日なのだが、この地域は西陣からはみ出してできた地域なので、織屋(おりや=西陣織の帯を織る織物業)が多い。織屋の休みは月に二回しかなく、1日と15日だけ。そこで8月の15・16日にすることになった。

 板敷きにテントを張って、さらに舞台もしつらえられる。昼間は板敷きの上で走り回り、夜には舞台でみんなの遊戯大会や幻灯映画が映写されたりと、催したっぷり。さらには脇で花火をして遊ぶ。もちろんみんな子供たちは、夕方になると、家で行水を済ませて浴衣で集まってくる。

 朝昼には石油缶の底をドンドコ叩いて、オヤツの時間を告げてまわる。みんな菓子券をもって駆けつけて、駄菓子などをもらう。もちろんそのまま舞台で走りまわって遊ぶ。16日の夕方には、舞台の片づけが始まる。ちょうど片づけが終ったころ、五山の送り火がともる。いよいよ夏も終わりだなと、一抹の寂しさを感じる時である。

 そうそう、地蔵盆の一大行事の「ふご降ろし」もあった。近くの家の二階からお地蔵さんの近くにまでロープを渡し、そこをふごと呼ばれる竹などで編んだ大きな篭が、ロープウエイのごとくするする下りてくる。篭の中には、洗面器とか鍋とかの景品がが入っていて、事前に配られた番号札に合致した人がもらう。ほうきなど、篭からはみ出すものは、二階から吊るされたとたんに解るので、みんなが歓声をあげる。

 ふごには、織屋ならどの家にもある「ボテ篭」というものが使われることが多い。ただの抽選会なのだが、ちょっとした仕事用具などを活用した工夫で、大人も子供もみんな楽しめるメインイベントであった。

2021年7月28日水曜日

#京都回想記#【13.お祭り】

京都回想記【13.お祭り】


 近くには「今宮祭」や「やすらい祭り」で有名な今宮神社があるが、うちの家は、より近くにある小さな「總神社天満宮」の氏子だった。天神様を祀った村の祠が、周囲が宅地化される時に囲いをつけて、やっと神社らしくなった程度の小さな神社だった。秋に行われる祭礼も、子供神輿がねり歩くぐらいの小規模なものだったが、神社境内には前日からたくさんの縁日の出店が出て、子供たちには年に一度の楽しみだった。

 小学生になる前は神輿を担がせてもらえず、「槍持ち・旗持ち」として行列についてまわる。行列が終ったあとは、近くの銭湯が無料開放され、うち風呂で慣れていたので少し恥ずかしかったが、この時ばかりは銭湯の大きな浴槽でみんなではしゃいだ。

 總神社には、源義経の父親で平治の乱で平清盛に敗れた、源義朝の別宅があったという説があり、天神様とともに源義朝が祀られているという。今ではその旨を記した案内板が掲示されているらしいが、子供の頃はそんなこと聞いたこともなかったのでマユツバっぽいと思っている。

 しかし、同じ町内の少し離れた場所には「牛若丸産湯の井戸跡」という石碑が立っており、この周辺に義朝の別宅があり、お妾さんの常盤御前を住まわせていたということは考えられる。その常盤が生んだのが源義経、幼名牛若丸であり、町名もその名にちなんでいる。しかも別に、「牛若丸誕生井」なるものが数百メートル離れた畑の中にあり、もはや何が真実ななのかは不明だ。

 いずれにせよ、この辺りに義朝ゆかりの地があり、そこで牛若が生れたということは、いくつかの伝承から推定される。しかしそんなことにはお構いなしに、神社境内は近隣子供たちの大切な遊び場であり、木登り、相撲、ボール投げ、かくれんぼと、何でもやったものである。

「総神社」

2021年7月27日火曜日

#京都回想記#【12.小学校時代2】

京都回想記【12.小学校時代2】


 小・中・高校すべて、京都市立の公立校だった。小学校では6クラス、中学は3小学校から集まるので12クラス、高校はさらに北区の5中学ぐらいから集まるが、入試選抜があるので13クラスということだった。いつも教室が足らず鉄筋コンクリートの新館が建設中だったが、在学中は取り壊し前のボロ木造校舎。高校などは、ベニヤ板とスレートで急設されたプレハブ教室だった。

 小学校では低学年の三年間が同じクラス、四年生になるときにクラス変えがあって、高学年の三年間も同じクラスだった。高学年になると学級委員の選挙があった。一学期ごとに男女一人づつ選ぶのだが、戦前は学級長と呼ばれ成績などが優秀な生徒を教師が指名したらしい。さすがに戦後民主主義教育とかで、相互にクラス投票で選ぶのだが、小学校ではやはり成績がよさそうな生徒が選ばれた。私も成績は適当にできたのだが、一学期には必ず、成績も性格もてきぱきと人望があるもう一人の生徒が選ばれ、私は人望がなく協調性にも欠ける生徒だから、3年間とも二学期にやっと選ばれた。

 学級委員には、それを示すバッヂが貸し出された。胸にそれを着けるのが義務付けられていて、家に帰っても外すのを忘れて、そのままで生活していることが多かった。あるとき自宅の汲みとり便所に、そのバッヂを落してしまった。覗いてみたが小さくて見えず、さすがに拾い上げるのは諦めざるを得ない、さあどうしたものかと、物陰に隠れてシクシク一人で泣いていた。

 翌朝、思い切って担任の先生に打明けたが、そんなことで泣いていてどうするの、と逆に励まされた。一学期にいつも選ばれる優等生的な生徒と対照的に、そのような、気弱で社交性の無い意気地の無い生徒だった。

 6年生10月ごろ、伊勢志摩方面への修学旅行に行った。最近のようにバスガイドさんが旗を振って引率するのではなく、クラスごとに担任の先生を先頭に行進している。男女の先頭は、正副学級委員が歩くことになっていたようで、たまたま二学期が指定席の私が先頭に写っている。

 高学年になるに従って、学校の休み時間は当然のこと、放課後や休日にも、近所友達よりも学校友達と遊ぶ比重が高まった。休み時間にはドッヂボールなどで、放課後や休日にはソフトボールをすることが多かった。人数が足りないときには三角ベースや太鼓ベース、詳細の説明は省くが、太鼓ベースとはピッチャーとバッターの二人からできるルールだった。

2021年7月26日月曜日

#京都回想記#【11.近所の人々3】

京都回想記【11.近所の人々3】


 家のすぐ前で凧揚げをしていると、通りすがりのおじさんが勝手にカメラを向けて撮っていった。その写真を後日、家に来て売りつける仕組で、母親から知らない人に勝手に写真を写されないように言われた。現像したのを持ってこられると、断りにくいという心理を利用した商売らしい。

 このようにして家の前の道端で、独りで遊んだり、仲間と遊んだりするのが一日の日課みたいなものだった。あるとき、いつものようにみんなで遊んでいると、それを近くのおばさんが眺めてていて、遊び仲間の一人の男の子を呼び寄せた。その子は坊ちゃんぽい顔つきで、上品な気配の少年だった。

 昭和30年当時、まだ町内には「戦争未亡人」と呼ばれる人たちが、数人は住んでいた。親や子供たちと一緒に大家族で過す人も居れば、母親と子との母子家庭もあったし、独りで暮らしている婦人もいた。そのA婦人もその一人で、借家にひっそりと独り住まい。婦人はいつも地味な着物を身につけており、ほっそりとして色白、若いときはそれなりの美人かとも想像された。

 A婦人は呼び寄せた男の子の手を取ると、「あら、こんなとこが汚れてるわ、オバサンが石鹸で洗ってあげる」と家の中に引き入れていった。その言葉つきからは、京都育ちではなくて、関東方面から移ってきたのかと思わせた。その子の手の甲には、硬貨大のうっすら黒ずんだアザがあって、毎日遊んでいるわれわれ仲間はみんな知っていた。石鹸などで洗っても落ちるはずがないのに、大人のおばさんが何故そんな変なこと言うんだろうと、いぶかった。

 しばらくしてからその子が戻ってきたが、家の中でどうしてたのか、何故かきいてはいけない気がして、みんな何事もなかったように遊びを続けた。孤独な未亡人が、かわいい子を見て、ふと家に引き入れて御菓子などを与えただけなのかも知れないが、何故かその時の不思議に思った違和感が、いまでも印象に残っている。

 ひょうたん屋の老夫婦、マイペースな生活を送るYちゃん、そして戦争の傷跡を抱えて独り暮らす未亡人。ちょうど高度成長の初期にさしかって活気をみせる世間に背を向けて、ひっそりと暮らすこれらの人々の孤独感が、記憶の奥でぼんやりと思い出される。夜なべ仕事の親が仕事を終えて居間に戻るのを待ちながら、畳の上でビー玉を転がして独り遊びする自身の孤独と、多少なりとも重なるところがあったからかも知れない。

2021年7月25日日曜日

#京都回想記#【10.近所の人々2】

京都回想記【10.近所の人々2】


 ひょうたん屋の斜め向いの家に、Yちゃんが住んでいた。ちゃん付けで呼んでいても、もう40歳近くで、年取った母親と二人で暮らしている。その甥にあたる子供も近くに住んでいて、我々と同年齢で我々の遊び仲間だった。その子に聞いたところによると、Yちゃんは小学校では成績がよくて級長(学級委員)などもしていたそうだ。戦後になっても、経済的に苦しいにも関わらず、大卒資格を取ろうとして、大学の夜間部に在籍したりしていた。

 当時は町内で大学に行くものなど皆無、中学を出てすぐに織物職人になるのが普通だった。そういう世界から脱出したかったのだろうが、やはり続かずに中途退学、自宅でこつこつと織物をやって生活していた。気のむいたときだけ仕事して、かろうじて暮らしていける程度に稼ぐだけ。夕方になると自転車でふらふら出かけて、パチンコで時間をつぶしたり、屋台の赤提灯で一杯飲んだりというのん気な毎日。

 年老いた母親からすると、買い物炊事や家事はほとんど自分がやっているので、早く嫁をもらって楽になりたいというのだが、Yちゃんには一向にその気も無さそうであった。今と違って隣近所の付き合いも密接で、町内会や町内会の青年団の活動なども活発であったが、Yちゃんは青年団の行事に参加することもなく、町内会の会合に顔を出すこともなかった。

 もちろんそういう生活を送るようになったのは、夜学生としての挫折など、他人がはかり知れない内面の出来事があったのだろう。だが、外面だけ見ると、好きな時間に起きて、気が向く時だけ仕事して、気楽に一杯飲んで、眠くなれば寢る。まわりの大人たちからは、近隣の付き合いもせず、ある種の落伍者として見做されていたが、ある意味、自由人で、子供ごころには何となく惹かれるところがあった。

2021年7月24日土曜日

#京都回想記#【09.近所の人々1】

京都回想記【09.近所の人々1】


 大きな板をひょうたん型に切り抜いたものが、入口に掲げてあった家だが、そこを「ひょうたん屋」と呼んでいた。そこには老夫婦が住んでいた。借家だったと思うが、主人一人で住んでいたところに、いつのまにか後妻といわれる少し年下の女性が住み込んだようだ。ほとんど近隣との付き合いもなく、隣家からの話として伝わってくるところによると、深夜にガタンガタンとマイペースで機織(はたおり)をする音だとか、夫婦でぼそぼそ語り合ってる声が聞こえてくるとか、その程度の情報しかなかった。

 「ひょうたん屋」は「横手」と呼んでいた細い道とT字型に交わる接点にあった。横手は車も通らない細道なので、我々の恰好の遊び場であった。ドッヂボールの投げっこなどをしていて、玉がそれると「ひょうたん屋」の竹垣にぶつかることになる。半分腐りかけたぼろぼろの竹に当ると、条件反射のように「こらぁ!」と主人が怒鳴りに出てくる。少し腰が曲り気味で、ほとんど抜けた前歯の隙間から空気が洩れるのか、怒鳴る声にもさっぱり迫力が無い。

 子供たちは一応逃げるが、いささか滑稽でもある主人の怒る様子を愉しんでいる気配もある。ほとんど効果が無いのを意識しているのか、老主人は一声怒鳴ったあとはすごすごと家に戻る。まるでチェーホフの短編に登場する市井の人物のようなペーソスただようその後ろ姿は、今でも目に焼きついたように思い出される。

 時々、奥さんが買い物籠をさげて買い物に出かける姿なども見かけたことはある。もとからの夫婦ではなく、いつのころからか中年の地味な女性が出入りし始め、そのまま住むようになったようだ。外見からは仲むつましい老夫婦という感じであったが、二人の間となると様々な事があるのであろう。

 ある時、救急車がひょうたん屋の前で止った。奥さんが自殺を図ったという話だったが、一命は取り留めたとか。いきなり手元にあったベンジンを飲んだらしく、胃洗浄すれば、いきなり死ぬようなものではなかったわけだ。

 特別な付き合いも無く、たまたまひっそりと近くに住まわっていた老夫婦、具体的な生活の様子も分らないのに、子供心にこのような印象が深く刻みこまれてのは、不可思議でもある。

2021年7月23日金曜日

#京都回想記#【08.近所遊び】

京都回想記【08.近所遊び】


 小学校に入ってからは、それまでの近所の子供たちとの遊びと、学校での友達との遊びとに分かれる。低学年では近くの子供との遊びが多く、高学年になるにつれて学校友達との遊びが増してゆく。それと共に、行動範囲も広がっていく。

 近所仲間との遊びも、道端遊びと家遊びに分れる。これも、幼いときは女の子もも交えての家遊びから、やがて男の子ばかりの外遊びに移行してゆく。私はゲーム、将棋など屋内での遊びが好きだったが、皆に引きずられて外遊びが多くなっていった。

 道端での遊びは数多くあった。その時によって、また集まった人数により、適当な遊びを決める。ある時期、ある遊びがブームになると、しばらく同じ遊びが続くが、やがて飽きると別の遊びがハヤリになる。男の子たちの人気のあった遊びは「ビー玉」と「メンコ」だった。それぞれにいろいろな遊び方があったが、とにかく相手のビー玉やメンコを取るという一種の賭け事だった。

 それ以外にも様々な遊びがあったが、中でも私の好きな遊びが一つあった。当時は道路は舗装などされてなくて、土の地道のままであったが、家の軒下などはセメントで固めてある。そのセメントの部分に、チョークで直径1m程度の円を描き、そのまん中に小さな円をかく。そしてその間を、傘のように放射状の線で区切って分割する。中央の小円には「休み」、放射状に区切られた区画には、それぞれ皆が分るような場所などを書き入れる。たとえば、「トユ3本」「でんしんぼう」「ひょうたん」「白いセメン」などなど。

 そして2mほど離れた線のところから、各自の石をなげて、入ったところの書き込みに従う。そして用意ドンで、それぞれが指定されたものをめがけてタッチしに走る。「ひょうたん」とは固有名で、ある家の戸口の上には、瓢箪型に切り抜いた1m幅の板が掲げてあって、何のためにそれを掲げてあるのか知らないが、その家のことを「ひょうたん」と呼んでいた。その「ひょうたん」に触って戻ってくるのだ。

 「白いセメン」とは、遊び道路にある四差路に、道脇を流れる側溝が道路を横切る場所がある。その横切る溝の蓋がセメントで固められていて、土の地道の間で白っぽく見える。そこまで走って、踏んでから帰ってくることになる。中央の小円に入れば「休み」で、次の回の先頭で待っていれば良いというラッキーマーク。

 かくして遠くまで走るはめになった者は、最後に帰ってきて並ぶので、次回はいちばん最後に石を投げることになる。それだけの他愛のないゲームだが、なにかルーレットのような楽しみがあって、私の好みだった。

 こうやって駆け回る道筋に沿って、向かい合わせに並ぶ家々には、それぞれ個性的な人物が住んでいたりする。そのへんの記述は、次回にまわすことにする。

2021年7月22日木曜日

#京都回想記#【07.小学校時代】

京都回想記【07.小学校時代】


 小学校入学式の記念写真。表て道りに面した50mぐらいの近所に、これだけ同期生がいた、実は入院中で写ってないのがもう一人いるので、全部で5人になる。母が40歳の時の子なので、この中でうちの母親がいちばん歳をとっている。参観日など、できれば来てほしくないと、けしからぬ事を思ったものだ。

 クラスは50人ほどで、すし詰めの教室だった。各クラスには数名の在日朝鮮人の子供が居た。本籍名だったり、日本名を名乗ってたりいろいろだったが、それとなくみんな分っていた。大人たちの差別意識は隠然とあり、それが不可抗力的に子供たちにも埋め込まれていた。しかし、露骨に差別したという意識も無い。なんとなく触れてはいけないという空気を感じていたのだと思われる。

 当時の北朝鮮は大躍進し地上の天国と喧伝され、一方の韓国はといえば、親米傀儡政権のもとで惨憺たるありさまであった。北朝鮮への帰還事業というのが積極的に推進され、多くの同級生が母国へ帰って行った。その後の苦難が想像されて痛ましい思いである。

 校舎には、上履きに履き替えて入る。休み時間になると、裸足で運動場に出て、元気に走り回った。ドッジボールなども人気があったが、男の子は土俵を描いて相撲をよくした。短足で腰が強かったせいか、相撲は強く、学年上の大柄な子供なども投げ飛ばしていた。女の子は縄跳び、ゴム飛びなどをしていたが、男女が一緒に遊ぶことはなかった。

 三年生になる時、担任が換わった。朝礼で新規に転任してきた先生がたの紹介があり、すきっとしたスーツに身を固めた若い女の先生が際立ってみえた。その先生になると良いなと思ってたら、そのまま担任になった。始業式が終って家に帰っていると、その先生が早速うちの家までやってきた。まだ何も悪いことやってないぞと、何事かと思ったが、実は遠縁にあたる親戚だそうだ。このことはクラスでは言わないようにと指示されて、そのことは一年間守った。

 えこ贔屓と思われたくなかったのだろう、むしろきつめに叱られたりした。とはいえ、やはりお互いに居心地が悪く、先生は転任希望を出して、一年で地元近くの学校に移って行った。

*December 14, 2016 三年生の時の担任T先生が亡くなったと、先ほど兄から連絡があった。享年92、合掌。

2021年7月21日水曜日

#京都回想記#【06.家族3】

京都回想記【06.家族3】


 加茂川に沿って加茂街道を北大路から少し下がったあたりから、西に向けて堀川鞍馬口まで、紫明通りという広い道路が走っている。これは白川疎水が賀茂川を越えて、堀川にまで流れ込んでいた名残で、曲がりくねっている。しかも戦争中に強制疎開で拡幅されたので、現在のように、やたら幅が広いが曲がりくねって短く、都市道路としてあまり意味のない道路となっている。

 昭和の初めまで、祖父母と母はこの近くに住んでいて、疎水が近くだったと聞いたことがある。そこに父親が養子として入って、やがて北区(当時は上京区)紫竹に家を建てて移った。その頃、西陣の織物業は活況で、旧西陣地区は満杯状態、そこで市が北大路通りを整備して、そこから今の北山通りまでの地区を区画整理して宅地化した。その一角に西陣からの移転を積極的に推奨し、市が住宅資金の融資などをした。

 この時、市の融資を受けて建てた家が、私の育った実家である。図にあるような典型的な「うなぎの寝床」と呼ばれる町屋造りであるが、さらに裏庭の奥に織物用の仕事場が別棟で建っている。そういう別棟付きの織屋(おりや)建でないと、融資の基準を満たさなかったそうだ。

 一時期を学生で神戸で下宿した以外、生れてからほぼ30年間この家で過した。子供の時期には、物置、路地、裏庭、仕事場など、いっぱい冒険の場があった。中高生時代には、物置で江戸川乱歩全集などを見つけて、密かに隠れて読んだ。乱歩によく出てくる怪しげな西洋館とまでは行かないが、秘密の場所がいくつもあって、臨場感満杯で夢中になって読んだ。

 女の子が居なかったので雛人形は無かったが、毎年端午の節句になると、お爺ちゃんが「大将さん人形」(五月人形)を飾ってくれた。二階の押し入れに、まるで甲冑でも仕舞ってあるような大きな長持があって、その中に丁寧に紙でくるんでしまってある。それを、一階奥座敷の床の間に飾る。一番上段は甲冑を纏った武将、その他、桃から生れる桃太郎とか、熊と相撲を取る金太郎、槍で虎退治する加藤清正など、雛人形とは違って、男の子が強く元気に育ちそうなものなら何でもありだった。

 その祖父も、私が小学校二年生の時に八十八歳で亡くなった。風邪で数日寝込んでいて、学校から帰ると亡くなっていた。家族で亡くなったのは初めての経験で、怖くてチラッとしか死に顔を見なかったが、老衰ということだった。祖母は九十歳を越えて長生きした。うちの家族は長生きの家系のようである。

2021年7月20日火曜日

#京都回想記#【05.家族2】

京都回想記【05.家族2】


 父が婿養子に入ったので、同居していたのは母方の祖父母となる。母方の祖父は明治11年ぐらいの生まれ、西郷の西南戦争の翌年というから、気が遠くなるような話だ。京都の生まれは確かだが、早くから丁稚奉公に出されたので、親元の記憶もあやふやらしい。寺も後日、知人の紹介で世話してもらった浄土宗の寺院に墓をもったということで、過去帖などもあるわけがない。つまり祖父以前の家系はたどりようがないわけだ。

 祖父から聞いた面白い話は、当時の徴兵検査の様子。検査場に入ると、そこに身長ほどの高さに荒縄が渡してある。検査官が、真っ直ぐ立ってその下をくぐれという。直立してもその荒縄に触れなければ、身長不足で不合格だとか。ほかにどんな検査があったか知らないが、この話だけは当時の状況を物語っていて興味深かった。

 祖母も、同じ明治十年代の生まれで、富山出身、のちにイタイイタイ病の中心地とされた地区である。祖母の従姉妹などにもイタイイタイと言って死んでいった者が居たと聞いた。当時は小学校制度が、地元の協力を得ながら確立しつつあった時期で、祖母も尋常小学校に「一週間」ほど通ったらしい。

 学校への行き返りに、いじめっ子が待ち構えていて石を投げてくるという。親に行くのが嫌だというと、それなら行かなくても良いよと言われ、それっきり止めたらしい。当時の農家は子供も必要な働き手で、学校に取られると生活に拘ってくるので、できれば行かせたくなかったとか。そんな時代だったわけだ。

   降る雪や 明治は 遠くなりにけり  草田男

#写真は小二ぐらいのときか。家の前の道端で遊ぶ。昭和30年代初めで、道はまだ地道で車もほとんど走らなかった。お百姓さんが肥桶を大八車に積んで、牛にひかせて汲み取りにやって来た時代だった。初期のダットサンらしき車が後方に写っている。この頃、祖父が亡くなったのを憶えている。右は最近の街並み、60年後でもほとんど変わってないのが面白い。

(追記)
 祖父「新七」の父親の名は「新助」といったらしいと、後日、兄から聞いた。祖母は「シゲ」と呼んでいたが、70歳ぐらいの時に何かの必要で戸籍謄本をあげることになった。兄が役所で取ってきたが、何と名前が「ヨリ」となっているという。生まれも本人が憶えているよりも二年ほど前になる。実は祖母の上に姉が生れたが一歳ぐらいで亡くなったらしく、死亡届も出さずにいるうちに祖母が生れ、そのままの籍にしたらしい。それ以降「ヨリ」と名乗るようになった(笑)